春の憂い 3


そして約束の逢瀬の日がやってくる。


一段と早起きした土井は、まだ薄暗い井戸へ出て
いつもより念入りに顔を洗い、歯を磨き、
ボサボサ頭を撫でつけて髪をきつく縛った。


“・・・もっと浮つくかと思っていたけど―・・・”


これではまるで任務前ではないか、と思うほど
黙々と身だしなみを整える自分に驚きながら。

外出許可は、昨晩のうちに貰ってある。
生徒が起き出してくる前に、朝靄に紛れ学園の門をくぐった。

待ち合わせの場所は、土井の自宅。
そこで合流してから少し離れた街へ二人で足を伸ばすのだ。

あれをしようか、そこへ行こうか。
一日の予定を考えていると、少し告白前の緊張も和らぐ。
いくぶん軽くなった足取りで先を急いだ。



******



自宅に着いた後は、戸を開け放して留守中の埃を払う。


「ぃよい、しょ、っと。」


それから中庭の共同の井戸へ向かって、新鮮な水を汲み上げ
やって来るであろう待ち人の喉を潤してやるつもりだった。
が、その作業中。
地下から引き上げる桶の重さがふっと軽くなる。


「!」
「お手伝いします。」


滑車の回る音にも掻き消されず、鼓膜に心地よい声が届く。
振り返った土井の目にきらきらとした朝陽の輪郭。


「利吉君!」
「おはようございます。」


隣に立って一礼するのは、紛うことなき想い人だ。


「早いね。驚いた。」
「楽しみで、待ちきれずに来てしまいました。」
「ホントかい?そりゃ光栄だ。」


一緒に井戸水を汲み上げながら、片眉を下げて照れ笑う土井。
社交辞令でも嬉しく、腰にぶら下げた手拭を差し出して
少し濡れそぼった利吉の手を気遣えば
そのまま、朝の時間は静かに流れてゆく。

いい天気になりそうだねぇ、なんて
暢気に土間の水瓶を満たしながら。
汲みたての水を一つの柄杓で回し飲む
その、穏やかなやり取りにうっかり涙さえ出そうになる。

今日告白してしまったら、こういう他愛ないやりとりすら
二度と出来なくなるかもしれないのだから。

当然土井の腹の中には
「今のままの関係で充分幸せじゃないか」
「今なら未だ引き返せる距離じゃないか」と
臆する気持ちも出てきた。


けれど、水で潤したばかりのこの喉がいずれまた渇きを訴えるように、
この先もどうせ自分は利吉との逢瀬を繰り返し必要とするだろう。


会いたい、から。
言葉を交わしたい、へ。
共に過ごしたい、から。
触れたい、へ。

そうして、どんどん欲は大きくなる。
いつかこんな他愛ないやり取りでは足りなくなる。


“―…だったら、この期に及んでウジウジ悩むのは無しだ!”


最後の逡巡を振り切った土井の目に力強さが戻る。


「さて、そろそろ行こうか、利吉君。」
「あ、はい!」


促すように、肩越しの視線を送ってから土井は歩き出す。
半歩後ろにいる利吉との、触れそうで触れない距離感。
今は和やかな朝陽だけが、連れ立つ二人の影をそっと重ねていた。








4へ続く
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