春の憂い 6


廃寺の堂内は薄暗い。
本尊は何処かへ持ち去られたのか、
わずかに錆びた仏具だけが祭壇に転がっていた。

利吉は風呂敷を解き、持っていた手拭いで辺りの埃を払う。


「大丈夫ですか?先生…こちらへ」


促されるまま土井は板間に体を横たえた。
雑踏が遠のく。

胃の痛みはまだ僅かに残っているものの、
だいぶ落ち着きを取り戻しており、
四半刻も休めば回復できそうだ。

堂内を静かに満たす、
利吉の心配そうな気遣いが心地良かった。


「…ありがとう」


深呼吸する土井。
もう大丈夫だよ、おかげでずいぶん楽になったと
笑ってみせると、利吉もいくらか表情を緩めた。


「良かった。」
「うん。」


安堵を浮かべる表情も可愛い。
忍たま達の手本として凛としている様も絵になるのだが。
こういうふとした瞬間のあどけなさを、
愛してやまなくなったのは何年前からだったか。


“よし。少し休んだら、軽く何か食べて
 桜を見に行ってそこで…!”


今さらに愛しさを再確認させられて、土井は決意を新たにする。
けれど、やっと取り戻せたと思った二人の時間は
長く続かなかった。


「あの、土井先生。」
「ん?」
「痛みが引いたらご自宅までお送りします。」
「…えっ?!」
「ゆっくり家で休まれたほうがいいですよ。
 やはりご自身が思う以上に、お疲れなのでしょう。」


利吉にしてみれば、真摯に土井の体を労わった上での発言だった。
その気持ちは嬉しいが、突然終わりを告げられる逢瀬ほど
今の土井に惨いものはない。

しかも、胃痛の原因は疲労とは異なる。
かといって他ならぬ、君への恋煩いからなんだよ…
とは流石に言えず。


「今日は本当に楽しかったです。先生、ありがとうございます。」
「いや、その…まだ…」


土井が何と釈明したものか逡巡していると、


「そうだ、学園に戻られたら新野先生に薬を貰って下さい。」
「へ?」
「私、この間薬草の新しい調合方法が書かれた本を
 お渡ししましたから、きっと―」


また違う人物の名前が利吉の口唇から紡がれた。


「……っ」


それが無性につらい。
もう、これ以上聞きたくもない。


無理だ。


土井は知らず目を細め、口を噤んだ。

緩々と上体を起こす。
そして、風呂敷を肩にかけ出立の支度を始めた利吉を
正面からゆっくりと抱きしめた。


***


「…せん・・っ!?」
「待ってくれ。」


慌てふためく利吉を土井は抱き寄せて囁く。

それは、単に出立を引き留める意味だけではなく
どこか、利吉という存在を自分の側へ繋ぎ止めるための
呪のようでもあった。

出会ったのは6年前。
12才の利吉は年の割りに成長が晩稲で、
抱き抱えても土井の片腕でまだ余る小ささだった。

今ではどうだろう。
自分の知らないところで、想い人はどんどん美しく聡く育ってゆく。
弛まぬ努力が利吉を磨き、人脈も豊かに広がっている。
忍びだけではない、商人や武人・一国の主さえ彼を欲しがる有様だ。
どこにも属さない身で、たった一人驚くべき評価を築いてゆく。

期待の代償に途方もない苦悩や葛藤を背負い、
これからも抱え続けていく彼を
大木のように自由に動いて見守れる訳じゃないし、
温かく迎え入れられる自宅もない。
カステーラのように、広い世界を見せてもやれない。

学園と言うある種平和な共同体で、
めざましく成長してゆく利吉をただ待つだけの自分。


“そりゃ、無力さと歯がゆさで胃痛にもなるけどさ…”


一度は全てが灰燼に帰し、もう何も望むまいと諦めた自分が
心底惚れてしまった相手なのだから。
ここが潮時と判断し、土井は観念した。


「君が、好きだ。利吉君」


本当は桜の下で満を持して言うつもりだったが、
やはり中途半端に助平らしい。
堪えきれず、こんな廃寺で突然抱きしめ、
愛を乞うているとは滑稽だ。
でも、それほどに必死だ。

抱きしめる腕も必要以上に力んでしまって、抱いていると言うより、
しがみついていると言った表現のほうが適切かもしれなかった。


「まだ、行かないでくれ。もう少しこのまま君といたい。」


首元に口唇を寄せ、祈るように呟く。
不謹慎にもうなじから香る青年の甘やかな匂いが、血を騒がせた。








7へ続く
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