“せめて「有難う御座います。」と言うべきだったのに。”
学園を背にして歩きながら、利吉は悔やんだ。
けれど無表情でせめて礼節を守ることが、あの時出来る精一杯だった。
“結構八方美人には自信があるんだけど…土井先生には上手くいかない…。”
多分それは利吉が土井半助という人物を必要以上に意識してしまっているから。
いつから、という訳でなく。何か衝撃的な出逢いがあった訳でもない。
ただ、軽身剤騒動が起こり、利吉が火縄銃で撃たれた時。
抱きとめて傍で援護していたのが彼であった。
その時の腕の感触が、利吉に何かを与えたのかもしれない。
以来、先刻のような社交辞令を素直に受け取れなくなり。
それどころか、平等な優しさを一層悲しく残酷に思ってしまう。
“特別扱いを望んでいるのか…?土井先生に?馬鹿馬鹿しい。”
思い通りにならない行動に焦燥を感じ、利吉は戸惑った。
18の生真面目な青年は、この感情こそが「恋」の始まりだと、まだ気づいていない。
自分らしからぬ矛盾した思いを払拭するように顔を上げる。
するとちょうど峠の茶屋が見えた。
そこに繋ぎ止めてある栗毛の牝馬は、つい先日まで請けていた仕事の報酬として、利吉に下賜されたもの。
学園に騎乗で訪問するなんて気恥ずかしくて出来ず、峠の茶屋に休ませておいたのだ。
茶屋の親父に礼を渡し、利吉は手綱を取る。
「さてと、たまには母上に顔を見せなきゃな!」
うららかな秋晴れの空。
気を取り直して、利吉が峠を歩き出した直後。
「くそっ…!」
罵倒と共に脇の藪から突如。
虚無僧姿の男が転がり出て、道を遮った。
「うわ…っ!?」
追うように飛来する矢を乱暴に叩き落し、男は体勢を立て直す。
歩みを止められた利吉以上に馬も驚き、高くいななく。
しかし男は何故か、馬と利吉を見るや否や、「助かった!」と叫んだ。
あとは一瞬。
無関係な逃走劇に巻き込まれた、と気づいた時には既に遅く。
利吉は男に横抱きにされ、疾走する馬上の人となっていた。
3へ続く