「そうか、受けてくれるか。」
男は嬉しそうに微笑んだ。利吉の肩を抱く腕にも力が入る。
「大名のご嫡男とは知らず、無礼をお許し下さい。」
「いや、こちらこそ…って、そうだ!名前!」
非礼を詫びる利吉に、男は慌てて名を問うた。
思えば余りにも唐突な出逢いのせいで、まだお互いの名すら知らぬ仲なのだ。
「私の名は…。」
苦笑しつつ、言いよどむ利吉。
あの人に似た顔で、声で、本名を呼ばれる事が怖い。
けれど、偽りの名を伝えることもしたくなくて。
「本名は…申せません。傾城となりましたら…利女吉(とめきち)と名乗りましょう。貴方様のことは、御曹司とお呼びします。」
利吉は精一杯の誠意を込めて、答えた。
「分かった。利女吉か、良い名だ。」
「…っ。」
瓜二つの声。仮の名ですら、呼ばれると感情が揺れる。
瓜二つの笑顔。別人だと分かっていても、心が軋む。
利吉はぎりっと奥歯を強く噛み締めて、何とか平静を保った。
そして、同時にようやく自覚せざるを得なかった。
“私は…こんなに土井先生のことが好きだったんだ。”と。
「そうと決まれば館に着く前に変装をして貰いたいんだが。…もう夕刻だし、とりあえず今晩は近くに宿を取って、そこで今後の作戦を練ろう。」
「かしこまりました。」
道沿いには、宿も兼ねた飯屋が数件軒を連ねている。
そのうちの一軒が、男がよく忍んでくる宿だというので、利吉も後に従った。
格子戸から灯りと夕餉の香りが漏れ始める頃。
馬は宿の者に預けて、夕闇に紛れて部屋へ入る。
食事を済ませ、風呂を使い。
濡れた髪を手ぬぐいで乾かしている利吉の隣に、男は腰を下ろした。
「館にいて息が詰まる時、こっそりここへ泊まりに来る。」
優しく穏やかな声。利吉も微笑んで言葉を交わす。
「また酔狂な…。家臣の者が心配するでしょう。」
「そりゃあね、でも親父殿が元気でいるうちは、まだ何とか自由がきく。後を継いだら…もうそんな我が侭は許されない。」
「……。」
時は戦国。大名の嫡男には、嫡男なりの立場がある。
そしておそらく、世代交代の時が近いのであろう。
近い将来国を背負うために。
男は自由な最後の時間を、一芝居に賭けたのだ。
「おっと、辛気臭い話をしてしまったね。」
「いえ。」
「でも本当に私は運がいい。君のような綺麗でしかも腕のいい忍びと出会えて。」
「勿体無いお言葉。」
「明日の朝、おかみに女物の衣服と化粧道具を用意させる。芝居を始めて暫くは口さがなく言う家臣も多かろう。先に詫びておく。」
「お気になさらないで下さい、それが仕事ですから。」
中傷を当然のように受け止める利吉の態度に、男は少し苦笑した。
すっと利吉の頬に手を伸ばす。まろみの残る頬。
「こんなにあどけなさが残っているのに。幾つになる?」
「十八に御座います。」
「そうか、道理で。十八の身に忍びの道はつらいだろう?」
「他の道を知りません。」
淀みなく利吉は答えるものの、その肩はまだ薄く儚く。
“…この子は。”
男にはその姿がひどく憐れに思えた。
妙に場が静まり返る。
「さ、さぁ。夜もだいぶ更けたことだし。」
気を取り直して、男は態と明るく言い放つ。
「一緒に寝るか!利女吉。」
「…ええっ!?」
途端にまた利吉の目つきが険しくなるが。
「これから傾城を演じるのだから、振りだけでも同衾は必要だよ。」
「う、まぁ。」
これには、もっともな理屈だと利吉も納得せざるを得ない。
おずおずと男のいる寝床に体を寄せる。
途端、男は利吉の腕を引き寄せ、布団に押し倒した。
「…私は、振りだけじゃなくてそれ以上も望んでいるけど。」
「そん、な。」
かあっと頬を染め上げる利吉。
「…今すぐに答えを出せとは言わないよ。今夜は何にもしない。約束しよう。」
「…はい。」
固まる利吉の体を抱き、男は床に入る。
柔らかな布団の感触。
目まぐるしい環境の変化と慣れない感情に振り回されて、疲労が利吉を襲う。
おまけに秋の夜、外はもう肌寒さすら感じる季節である。
与えられる温もりが、利吉を眠りへと導いた。
四半刻もせぬうちに、寝息を立て始める。
「ん…。」
無意識に夜着の端を握り締めてくる利吉を、男は愛しそうに眺め。
“やっと年相応の顔を見せたな。”
その胸深くに抱きながら、自らもまた目を閉じた。
6へ続く