君にラッキョの花束を 15


しっとりと、水気を感じる何かが口唇に触れた。
その冷たさに意識が戻る。


中々思うように動かない体でどうにか身じろぎ、
目を開けるとそこには大木先生がいた。


「お、気がついたか。」
「……、……。」


どうして、何で、と声を出そうとしたが、
喉からひゅうと音が漏れただけだった。
身体を起こすどころか、唾を飲み込むその動きすらひどく痛む。

「無理して喋らなくていい。一刻ほど眠っていた。
 ちょっと話したいことがあったんだが、店じゃゆっくり話せそうもなかったんでな。
 長屋で待たせて貰っていたら、ちょうど騒ぎに出くわした。
 あ、それから、これはただの湿らせた綿だ。」


疑問符だらけのこちらの視線を読み取って、大木先生は的確に答える。

「こうやって、使うのさ。」

言いながら、手桶で少し水を含ませて。
その綿でもう一度ゆっくり私の口唇をなぞった。

「…………っ」


ついさっきまでピリピリ神経を尖らせて、
しかも名も知らない男に乱暴されかけて
どす黒い感情が自分の中に渦巻いていたのに。

大木先生の視線はひどく優しく、息を飲んだ。

綿でそろそろと私の口唇をなぞる仕草も、まるで壊れ物を扱うかのようで
かえって戸惑ってしまう。



“……ああ、また、だ…”


大木先生は時々こうして、愛しそうにこっちを見るのだ。
まるで恋人を見るような表情にドキリとさせられる。見蕩れてしまう。


そんな大木先生を嫌いではないはずなのに、
きっと生徒にも同じ視線を向けていると思った途端、厭な気分になる。


“これじゃあまるで嫉妬……って、私は何を…!”

熱に浮かされた思考回路があらぬ方向へ走り出して、
恥ずかしさに視線を逸らした。

慌てて顔を背ける私に大木先生は片眉を下げて笑ったけれど、
沈黙を紛らわすためか、今までの成り行きを話し始めてくれた。



一刻前。

暴挙に及んだ男は、大木先生に昏倒させられたがしかし
割と早く意識を取り戻したそうだ。
当然、大木先生に食って掛かったらしく、

「お前は利子の何だ!って、そりゃあ凄い剣幕さ。」

くっくっと楽しそうに思い出し笑いをしている。

「だから、キッパリ言ってやったんだ。俺は利子の最初の男だ!って。」
「!」
「…間違いじゃあないだろう?」


確かに…そう言えば反物を買って貰う条件がそんな話だった…と思い出す。
が、事の成り行きを知らぬものには、絶対に違う方向で捉えられるだろう。


「そしたら今度は最初だろうが何だろうが関係ない!って逆上しだして。」


手を焼いたわい、と大木先生は額を掻いた。


「まぁ…でも、ちょっとドスを利かせて凄んだら、さっさと退散しちまったがな。」

片腕を捻り上げながら、次に利子の前に姿を現したら叩っ斬る…と脅したらしい。
意気地のない奴よ、とケラケラと笑う大木先生だったが、
次の瞬間にはピタリと笑い声が止まる。

「惚れてる女が具合悪そうにしてるってのに、
 自分の欲ばっかり押し通そうなんざ笑止千万だ。」

  低い声が独り言のように漏れた。

「ワシは、ちゃんと一目でお前が具合悪いんだって分かったぞ。
 なぁ…今、ワシが何を言いたいのか、分かるか?」

「……ぇ・・・・?」

この場にいるのがもし父上だったとしたら、まる一日説教漬けで
さらに向こう三年は愚痴の種にされること間違いなしと言っていいだろう。

大木先生がいなければ確実に変装がばれて、
これが本当の仕事中だったなら完全に任務失敗なのだ。

だから、パッと思いつくことといえば、自らの不甲斐なさばかり。


「…た…体調、管理…ですか…?」
「違う。」
「……茶屋で…先生の話を聞かなかっ…」
「それも違う。」

あー!やっぱり伝わってねぇ!と大木先生は煮詰まった声を上げた。


「…………ぁの……」
「……………………」


そしてひとしきり頭を抱えて固まった後、


「…鈍感め。」


ぼそり、低く呟きながらゆっくり布団のほうに向き直る。

私の額に置かれていた濡れ手拭いが退けられて
取り替えてくれるのかと思いきや。

冷たいそれの代わりに額へ降ってきたのは

「!!」


柔らかく温かい感触。
つまり大木先生の口付けだった。

「な」

見開かれた私の目を真っ直ぐに捉えて、


「利吉、ワシはお前が好きだ。」

大木先生は、至極真剣な表情で言った。
何の冗談ですかと笑い誤魔化すことを許さない、
本当に真剣なのだと分かる表情だった。


それから少し首を傾げ、口唇を寄せて動きを止める。

いつもいつも無駄に強引なくせに、こんな時だけ
瞳が“いいか?”と同意を求めてくる。


生徒扱いじゃなかったと分かって、妙に安堵している自分とか。
いっそ強引に奪ってくれたほうが気楽なのに、なんてずるい事を思う自分とか。
風邪で気弱になっているだけと言い逃れしようか、迷う自分とか。


色んな思いが複雑に脳裏を去来したけれど、
結局それを纏め上げる体力は残っていない。


涙が流れたのも、熱のせいだということにして貰おう。



「利吉。」

名前を呼ばれるだけで気持ちいいなんて、知らなかった。
知りたくなかった。


初めて会った時感じた厭な予感は、当たっていたんじゃないだろうか。

この優しい全てを見透かすような温かい目で見つめられると、
自分が抱えているもの全部、今この時だけ少し下ろして
声を上げて泣いてしまいたい衝動にかられる。

“やっぱり…だから…大木先生は、苦手だ…”

観念して瞳を閉じる。


胸を締め付けるような太陽の懐かしい匂いに包まれて、
大木先生からの口付けを受け止めた。









16へ続く

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