長屋の障子から差し込む光が眩しくて、目を醒ます。
「ふぁ〜…」
あくびを一つ。
私は眠い目をこすりながら、起き上がって。
身だしなみを整えた後、茶屋へ向かった。
雀のさえずり、夜露残る生垣。
いつも通りの朝。
いつも通りの日常。
慣れた手つきで湯を沸かし、茶葉を長持から運び出し、
開店の準備を進めれば。
呆れるほど世界は平穏そのものだったから。
“一人で慌てて、悩んで…バカみたいだ。”
静かな店内で、昨日の失態を思い返して苦笑する。
“…悪い夢をみたとでも思って、
今日は心静かにお茶を点てるとしよう。”
手揉みの良質な茶葉を掬い、仄甘い香りを胸に吸い込む。
ふたたび心の中で、臨兵闘者皆陣列前…と九字の印を切り。
暖簾を持って、朝日の降り注ぐ軒先へ出た。
そして、見上げた太陽の下。
眼前に立っていたのは。
赤い鉢巻。
底抜けの笑顔。
「よう!利吉!」
「!!」
紛うことなき、大木雅之助先生。
「…っ、ぇぇええっ!?」
ガシャーン!!!と盛大に、私は暖簾を取り落とす。
九字の印効果が、ものの数秒で吹っ飛んだのは言うまでも無い。
「なななな、なんで…っ」
呆然と立ち尽くす私をよそに、大木先生はケロリと
「手ぬぐい、返しに来たんじゃ」
と笑いながら歩み寄ってきた。
「て…手ぬぐい?」
…そう…言われてみれば。
そんなこともあったような…。
思い当たる記憶に、私は顔をしかめた。
“もう関わりたくなかった…。”
拒否反応で、身体が自然と後ずさりしてしまう。
それにしても。
うっかり取った自分の行動を
これほど恨めしく思ったことがあるだろうか。
時間を巻き戻せるなら、あの瞬間の手ぬぐいを、
横からかっぱらってやりたいと心底後悔した。
反面、
そんなの適当に父上に預けとけば済む話じゃないか…!
わざわざ来る意味が分からない!!!
と逆恨む。
昨日に続いて今日までも。
忍びの修行を積んでなお、
全く思い通りに動かせない「大木先生」という存在に
だんだんとまた腹が立ってきて。
「授業のある中、わざわざご足労恐縮です。お急ぎでしょうし
竹筒に白湯を入れますので、お帰りの道中飲んで下さい。」
遠まわしに“早く帰れ”の社交辞令を投げかけてみる。
大木先生とて忍び、ここまであからさまなら
こちらの言わんとすることを察するだろうと踏んだけれど、
「なぁに、授業はまる一日自習にしてきた。」
「え゛」
1秒後、その読みが甘すぎるものだと思い知る。
「折角だから、ここでゆっくりして行こうと思ってな。」
「そんな不真面目な・・・。」
ついつい零れ落ちる本音、それすら大木先生は愉快そうで。
「ははは!山田先生にバレたら大目玉間違いなしだが、
二人だけの秘密にしておけば大丈夫だろ!!」
返って来た答えは、どこまでも勝手気まま。
二の句なんか継げやしない。
「よっ、と」
落ちた暖簾を、大木先生が拾う。
パタパタと土埃を払って、自ら軒に掛けてくれた。
「…あ、ありがとうございます。」
振り返り肩越しに、視線がぶつかる。
脳裏に焼きつくのは、いたずらっぽい笑みを含んだ無邪気な目。
「なんの、美味い茶を淹れてくれ。」
私の頭をくしゃくしゃと撫で、
鼻歌交じりに店の中へ入ってゆく大木先生。
父上にすら久しくされていない、子ども扱いに
カッと頬が熱くなるのを自覚する。
“〜〜〜やっぱりこの人…苦手だ…!!”
と、つくづく痛感。
でも今思えば、それこそが始まり。
出逢ってたった二日、時間にしたら一刻にも満たぬ間に。
大木先生は、ある意味私の「特別」になった。
“変な人と知り合っちゃったな…。”
これからどうなるんだろう。
気づかれないようため息をついて、
私は大木先生のあとを追うように、茶屋へ入った。
5へ続く