大樹の洞(たいじゅのうろ)


一層寒さも厳しくなった睦月初めの頃。
大木雅之助と山田利吉は、二人で山奥の小さな温泉宿へやってきていた。


きっかけは、年が明けて間もなく。
杭瀬村の大木宅へ利吉が新年の挨拶に訪れた際、大木から言い出した。


旅行なら春先の花見がてらでも良いんじゃないですか、と
正月明け早々仕事に出ようとする恋人を
宥めすかして決行した、二泊三日ぶらり近場の温泉旅行。

大木自身、杭瀬村で悠々自適の農業生活…とは言え、
侮る勿れ、なかなかどうして農業は日々忙しい。
そこを押して旅行に踏み切ったのは、ちゃんとした理由があるのだが。


兎も角まずは一風呂と、昼間から、贅沢なばかりに湯を零しつつ
岩で組まれた露天へ身を沈める二人だった。



「はーっ、生き返るなぁ。」


天高くなった冬の青空を見上げて、大木はゆっくり息をはいた。
利吉も一緒にほうっと口元をほころばせる。


「来て良かっただろー?」
「…ええ、まぁ」


当初難色を示していたことを反省してか、
片眉を下げながら利吉は少しだけ苦笑い。
伏目がちで照れを含んだその表情。


“畜生、かわいい顔しやがって…”


他の客がいないことを確認して、堪らず利吉の肩を抱き寄せると。


「わ…」


湯船に入っているせいで、利吉の体はいつもにも増して軽い。
あっけなく大木に寄りかかる形となった。
抱き寄せた薄い肩の感触に正直に、呟く大木。


「お前…相変わらず細いなぁ…」


髪を結い上げて露わになっているうなじから肩への、
何とも言えぬ曲線を盗み見ながら。
別に厭味ではなく、こんな細身で働きすぎなんじゃないか、とつくづく思う。



忍びとして独り立ちして数年、
ようやくやり甲斐ある仕事が間を置かず舞い込むようになったのだろうが。
十の子供にまで、こぞって仕事中毒と揶揄される執着ぶりは解せるものではない。
大木にとって、誰にも頼らずどこにも属さず孤軍奮闘する利吉の姿は、
やはり心痛むものだった。


おそらく、利吉の持つ特有の危うさには彼の父・伝蔵も気づいている。
気づいているからこそ何やかやと理由をつけて学園へ呼び寄せては、
子供たちと触れ合わせて強制的に休息を取らせているのだろう。
器用だが温かい親心だと、大木は思う。

そしてあの親にしてこの子あり、と言うか。
聡い利吉は、父親の意図など百も承知で知らぬふりを続け、学園へ足を運んでいる。
これまた不器用で優しい子供心だと言えよう。


だが皮肉なことに。
利吉には、父親のいる学園だからこそ行けない時がある。
子供たちがいる学園だからこそ、行くべきでない時があるのだ。


父親に余計な心配をかけたくない時は勿論。
子供たちに不用意な恐怖を与えたくない時も決して近付かない。


学園に行く時は己の手の血を洗い流し、身と所持品を清める。
子供たちの喜怒哀楽に付き合う体力は残っているだろうかと考える。
あの温かい学園に、暗い闇を落とさないように心を砕く。
そして笑顔を浮かべ学園を出たその足で、たった一人また戦場へ赴く。

卒業生ではない、職員でもない。
教員の一家族に過ぎない。
ただの関係者という距離感は、乱世において
馴れ合い過ぎると双方に災いをもたらすだろう。


だからこそ利吉にとっての学園は、羽を休める止まり木になりこそすれ、
決して嵐や天敵から身を守る大樹の洞(うろ)になり得はしない。
結局、利吉が学園に顔を出すのは、まだ相手に配慮する余裕のある時に過ぎないのだ。



大木がその事実に気づいたのは、
今から数年前、まもなく利吉が独り立ちを迎える頃だった。
どこにも属さぬ身で一人乱世に身を投じるなど、
もはや生き急ぐを通り越して死に急いでいるようにしか見えなくて。

放っておいたらいつか誰も知らないところで、
ひっそり命を落とすのではないかと危機感が募った。

仮に運良く生き永らえたとしても。
利吉はその見目の良さから、男女問わず言い寄られることが多い。
自分以外の誰かが、傷ついた利吉を手当てし、
涙を拭い癒すなど断じて受け入れられることではなかった。

大木は焦り、そして。
大勢の可愛い教え子や、競い甲斐のある好敵手、
尊敬出来る先輩教師まで揃う恵まれた環境より、野に下りることを選んだ。
単なる止まり木ではない。
自らの名の通り、本当に利吉が弱った時身を寄せる大きな木の洞となれるように。




と、そこまで回想が進んだ時、利吉が大木を引き戻すように抗議した。


「細くないですよ、普通です。それに実戦では体格が全てではないですから。」
「…あー言えばこう言う。」


大木の言葉に負けじと言い返す利吉の気丈さ。
それすらも可愛く、大木の顔が一段と緩む。


いきなりの惚気になるかもしれないが。
利吉の表情の中で、自分以外他の誰も知り得ないものは、存外多いと大木は思っている。
大木の腕の中でだけ見せる涙や笑顔。
からかえば、年相応どころかひょっとするとかなり幼く見えるような膨れっ面も。
ちょうど今湯煙にけぶる穏やかな横顔も。

自分が一番近くで一番たくさん見ているんだと自負があるから、
誰よりも切に失いたくないと思っている。


「まぁ…無理だけはしないでくれよ。」


大木の声が急に懇願するような口調になったので、
利吉も目を瞬かせてそれ以上の抗議を止めた。


甘え下手で自分に厳しく。なのに他人には甘い利吉。
他ならぬ利吉が、かくあるべきと自らに課しているから仕方ないのだが。
無意識に人はつけこみ利吉を頼る。


最近じゃ学園内の騒動だけでなく、
ドクタケ親子の家庭教師を引き受けたとかいう噂まで聞こえてきて。
正直、お人よしもたいがいにしろ!と文句の一つも言いたくなった。

とは言え、説教めいたことを諭しても届かないと分かりきっているし、
もともと大木は、「愛情は行動で示す」派である。


“小言を言う代わりに、ワシがどれだけ心配してるか体に思い知らせてやろう!”


それが、今日利吉の首根っこを捕まえて温泉宿へ引きずってきた理由だった。




もちろん利吉はそんな物騒な思惑は知らない。
ただ大木が自分の仕事中毒を案じて休息の場を作ってくれたことぐらい察しがつき、
思いやりに感謝していた。

現にこうして同じ湯船に、ぴたり肌をつけて浸かっていると肩の力が抜けてしまう。
この場では出来の良い息子や腕の良い忍びでいる必要もない。
利吉は、観念して大木に体重を預けた。
瞳を閉じて、今自分を取り囲んでいるものに集中してみれば。


“どれも…あったかい…なぁ…”


太陽の光と、溢れる温泉と、大木の体温。
何の抵抗もなく、その全てを心地良いと感じた。

ただひたすら強くなろうと忍びの生業にだけ打ち込んでいると、
だんだん闇の居心地が良くなってくる。
日の当たる世界が遠のき、輝く月も厭わしく、瞬く星すら煩わしい。
行動には情など要らず、効率と合理性を求めるようになる。
人の感情も己の表情も、目的を達成するための道具に過ぎなくなるのに。

そういう時、大木は何にもしがらみのない所からヒョッコリ現れて、
おかまいなく利吉を抱きしめる。
小言も言わず、泥くさい笑顔で、時にからかいながら。


すると、利吉の中で無駄なものと切り捨てた、
苦しいとか悲しいとかつらいとか、愛しいとか恋しいとか嬉しいとか…
言葉にならない感情も含めて、溢れるような情動が一気に押し寄せてくる。
自分を取り巻く世界はこんなにも温かいものだったかと、思い出す。
いつも。ちょうど今みたいに。


「…大木先生。」


しっとりと黒光りする睫を震わせ、利吉は突然大木の方へ向き直る。
湯気とともに立ち上る、十八歳前髪立ちの青年の色香は、
まるで酒精のごとく人を酔わせた。


「な、なんだ?」


意思の強そうな凛とした眼で大木を捕らえたまま。
紅いらずの薄桃色の唇が、有り難う御座いますと言葉を紡いだ。


「…おう」


大木は色香に負けじと不敵な笑みで返した…かった。
が、多分実際は嬉しくて泣きそうで、顰め面みたいな笑顔になっていただろうと思う。
しかも利吉までつられて、どこか泣きそうな顔で笑っている。


“あー、もう!”


食べてしまいたいというのはこういう衝動を言うのだろうか。
堪えきれず大木は利吉の肩を一層強く抱き寄せて口付けた。
湯温と同じくらいに熱い利吉の口腔を、
とにかく夢中で貪って一糸まとわぬ肌を重ね合せる。

好きだとか愛しているとか敢えて言わないものの
幾度も角度を変えて繰り返される、ついばむような口付けは
大木の強すぎる愛情を利吉へ伝えるには十分だった。

勢いのままもっと気持ち良くなりたいなぁと思う大木だったが、
薄目を開けて利吉を見れば、まるで茹蛸のように顔を真っ赤に上気させているではないか。
流石に長湯しすぎは良くないし、これからもっと体力を使うことをするつもりなのだ。
今利吉に湯あたりされては、お預けを食らってしまう。


「…部屋、戻るか。」
「……え、あ…はい…。」


ここは一つ大人らしい分別を以って部屋へ戻ることに決めた。
まだ温かく湿った肌に、やけに糊の利いた浴衣を羽織りながら。
大木は間延びした声で問いかけた。


「なぁ、利吉。今何月だ?」
「…睦月ですけど、何ですか?急に分かりきったこと聞いて。」


脱衣所を出ようとした利吉が、大木の方を怪訝そうに見遣る。


「いや、その睦月ってな、正月で親類やら知人やらがお互いに行き来して、
 仲睦まじくする月って意味なんだと。」
「へぇ!そうなんですか。」


利吉の大木を見る目に、珍しく尊敬の色が混じった。のに。


「そう。だから、ワシらも仲睦まじく…な!」
「…っ!」


同時に、大木の手が浴衣の上から、
利吉の尻をツルリとなで上げたのが悪かった。
当然尊敬の色など一瞬で消滅し、折角見直したのに!と利吉の眼がつり上がる。



けれど、まぁ、二人の仲を心配する必要はない。
大木を放ってスタスタ歩き出す利吉の足は、
それでもきちんと二人の部屋へ向かっている。


この後利吉は、大木が自分を温泉へつれてきた理由について、
身をもって知ることとなるのだが。
続きは書くだけ野暮と言うもの。



とある睦月はじめ、山奥の温泉宿。
あとは秘め事のものがたり。







■あとがき

ここまで読了有難う御座いました。

さて、今回のタイトル『大樹の洞』は、
“利吉さんにとっての大木先生”を喩えた言葉となってます。

原作でもアニメでも時々利吉さんは学園に来ていて、
それはそれで心の休息にはなってる筈だと思うんですが。

正直なところ、生徒でも卒業生でも教職員でもない立場で
“親の職場”へ行って“親の教え子”に囲まれた状態で
果たして本当に心が休まるんだろうか?
という疑念もあったりします。。


例えば制御出来ないほど感情が揺らいだり、
正視に堪えないような怪我を負った時、
利吉さんは迷わず学園に行くのか…って仮定したら、どうもそうじゃない気がして。

学園は利吉さんにとって、ある程度元気な時に“止まり木”として
休息する場所なんだろうなって言うのが最近のかえるの見方(妄想)ですorz

お母上のいらっしゃる実家も、親がいる場所という意味では、
学園と同じく“止まり木”に過ぎないのかもしれません。

で。そういう時、
利吉さんと同じく帰属する共同体を持たず行動している大木先生なら
何のしがらみもない「帰る場所」を作れるんだろうなー…なんて。
プリンセスコミックス裏表紙の背中合わせな二人を眺めては、
ぼんやり思っておりました。
(つだ様、その節は有難う御座います/涙)

ついでに言うと、「利吉のテーマ」で利吉さんが帰ろうとしている
その目的地が大木先生のいる杭瀬村だったら尚いいなぁと夢見つつ…。






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