不惑の翌年に。10



厚着にとっては実に十数年ぶりの、口付けだったように思う。

温かい人肌が、厚着の中の欲にじりじりと火をつけていく。

どちらかと言うとほっそりした利吉の頤は
厚着の無骨な手にたやすく収まった。
唾液を哺み移すようにしてやれば、
羞恥心に、理性に、葛藤に責め立てられ、利吉はたじろぐ。


鍛え抜かれた利吉の身体は、苦痛や重責には強いが
快楽や愛情の前にひどく脆く。
執拗な口技から逃れようと無意識に顔を反らすので、
厚着はすかさず白い喉元へ吸い付いた。


「…ぁ…ッ」


堪えがたい感触に、利吉は口唇を噛む。
抵抗するつもりはないのだろうが、どう振舞えば良いのか
この期に及んで狼狽しているのが手に取るように分かった。

いつもは生徒達の手本として凛としている彼を、
自分の手でこうも乱せることに
厚着には昂りを覚え、そして可愛らしくも思った。


直接的な刺激ではなく
首筋から肩口、小袖の合わせ目から手を忍ばせ、
撫でるようにへ優しく触れてゆく。


「あ、つぎ、せん…せ…!」


空気や気配を読むことに長けた薄い皮膚は、
次々とほどこされる繊細な感触にひとたまりもなく。

誰にもどこにも属さない、その手がついに伸ばされた。


一度宙を掻き、利吉の手がやっと掴んだのは
厚着の小袖の袂。


「!」


腕を振ればすぐにでも振り払えてしまえそうなほど
心もとなく掴まれた袖のはじ。

しばし厚着は動きを止めた。
抱きつくか、いっそしがみつけば良いものを、そうはしない。
彼の矜持が、そんな心の甘えを許さないのだろう。


“頑固な…。だが、私も人の事は言えん。”


内心苦笑する厚着の脳裏にふと思い浮かんだのは、かつての利吉の姿。

あれは、山田先生が単身赴任をしてきて間もなくだったから
利吉が八つを過ぎたばかりの頃だろうか。

風呂敷いっぱいに詰めた衣類を背負い、父を尋ねてきたものの学園内で迷った。
その時偶然通りかかった自分を、父と間違えて。
咄嗟に利吉が掴んだのも、
そう言えばこんな―…小袖の袂ではなかったか。


“あの時もやはり、簡単に振り払えてしまうほど気弱な掴まり方だった…”


迷子になったからといって泣いたりわめいたりせず、
子供らしさにいささか乏しいそんな利吉が振り絞った、
精一杯の依存心を。
思い出し、改めて厚着は噛み締める。


“変わっていくようで、変わらないものもまた…”


再び、地蔵堂の上をざぁっと風が吹きぬけた。

勢いの良い秋風は、遠くの人の声を拾ってきたようで
物思いに耽っていた厚着を我に返した。


ここは一応、往来のすぐ側である。
学園ともさほど距離が離れている訳ではない。

地蔵堂でこのまま事に及ぶにはあまりにも衝動的だろうと
いくぶん冷静になった頭で厚着は判断した。
名残惜しい気もするが、大人の節度というものもある。


圧し掛かっていた利吉の体から身をはがし、襟元を整えて咳払いする。


「―――…利吉君。先に麓まで下りて2つ目の飯屋へ行っていてくれ。」
「!?…あ、厚着先生はどうされるのですか?」
「後で追いつく。」
「え?」


聞き返す利吉に、厚着は別方向を向いたまま


「私はいったん学園に戻って、外出届を明朝までの外泊届に…変えてくる。」
「!!」


厚着の言葉の意味するところを察し、利吉はカッと頬を赤らめた。


「その馴染みの店は母屋が飯屋なんだが、離れで寝泊りもできる。
 上等ではないが夜具があるから…地蔵堂よりはマシだろう。」
「・・・。」


言外に滲むのは、厚着の気遣いかはたまた下心か。
たぶん両方だなぁと思いながら、利吉も束の間
心の準備をする時間ができてホッとする。


「茶でも飲んで…少し待っていてくれないか。」
「はい。」


利吉の返事を確認して、厚着は来た道を早足で戻ることにした。




***




カコーン…

鹿威しの音色が、学園長の庵に響いた。


「で、ですね。ちょっと追加の用事ができまして…
 外出届を明朝までの外泊届に変更させて頂きたいんです。」
「ああ、かまわんよ。了解した。」
「有り難うございます、明日の授業までには戻りますので。」


思いの他あっけなく許可が下り、厚着は安心した。
しかし去り際、障子に手を掛けた瞬間


「それでは、私はこれで…」
「ときに厚着先生。」


学園長が呼び止める。


「はい、何でしょう?」
「この間の忍術大作戦。利吉君と一緒に作戦にあたってもらったがどうじゃった?」
「え」


唐突に利吉の名前が出され、さしもの厚着も内心ギクリとせざるを得なかった。
が、すぐに切り替えて応える。


「ええ、久しぶりの実戦で大変収穫がありました。ですがそれ以上に
 現役の利吉君と行動することで色々…考えさせられることもありまして。」
「というと?」


学園長は興味深そうに聞き返す。


「喜三太の宿題の件、言い出したのは利吉君です。
 実はその少し前、私は宿題ならもう良いと声をかけていたんです。
 部外者と教師…言動が対照的で…面白いでしょう?」


自他ともに厳しいだなんて評価されていたが、どちらが生徒のためになるかは明白。
実戦がどうというよりも、今となっては利吉と作戦を共にした意義の方が大きかった。


忍びとして・教師としてかくあるべきだ…と拘っていた自分が馬鹿馬鹿しく思える。
驚きは反省に変わり、そして相手への興味に変わっていった。


対照的で、でも生真面目で頑固で自分によく似ているようでもある存在。

惹かれてやまない、その惚れ込んだ相手に身体をあずけられたのだから
男冥利に尽きると云うものだが。


「恥ずかしながら私はまだ不惑の境地には遠いようです。精進しますよ。」


そう厚着が苦笑いすると、学園長も大きく笑った。


「うむうむ!ならば安心じゃ。精気が戻ったような良い顔をしている。」
「え」
「いやなに、少し前の厚着先生は何やら難しい顔をしておったからなぁ。
 さほどに自分を厳しく律して、厚着先生はお坊様か聖人君子にでも
 なるつもりかのぅ?…なーんてヘムヘムと話していた所だった。」


“やはり、お見通しだった、というわけか。”


先の騒動で、厚着をい組と別行動にさせたのも、
利吉と作戦を組ませたのも学園長の采配だった。
園田村へ報告に走った折、チラッと過ぎった厚着の予感は当たっていたのだ。


そんな厚着の気持ちをよそに、学園長は暢気に茶をすすり始める。


「そもそも不惑ってのは、一切迷わなくなる状態じゃない。
 あくまで“狭い了見に捕らわれなくなった”分だけ心の迷いがなくなるだけじゃ。
 あまり気にせんようにな。」
「はい。」


今、どこまで厚着と利吉のことを把握しているかは謎として。
ひとまず厚着を激励してくれているのは間違いないようだ。

その采配に感謝して、一礼した後厚着は庵を後にした。




やがて厚着の気配が去った後、入れ替わりにヘムへムがやってくる。


「おお、ヘムヘム。厚着先生は元気になったようじゃ。」
「ヘム!」
「良かったのぅ。厚着先生の忍びの道、教師の道を極めんとする姿勢は素晴らしい。
 だが、単に厳しく禁欲的であればいい訳ではないのも、また面白い所ではないか。」
「ヘム〜」


老人と犬、はたから見ればただの独り言にすぎないが。


「知識や経験を重ねると、忍びとは教師とは…なんて考えも出てくる。
 まぁワシから見ればそれこそ狭い了見じゃな。
 忍びや教師である前に、生身の人間だということも思い出さねば!」
「ヘムヘムヘム、ヘムヘム」
「おっ♪そうじゃそうじゃ、ワシにもそろそろガールフレンドが来る頃じゃの♪」


厚着が聞いたら少し冷や汗の出る内容を楽しそうにしゃべりながら、
学園長もまた庵を出てゆくのであった。




そんなやり取りを知らない厚着は、学園を発つ足取りも軽い。


飯屋で待つ利吉はどんな顔をしているだろう…
きっと表面上は取り澄ましているものの、
内心年相応に戸惑った表情をしているに違いない…
とあれこれ考えをめぐらせながら。

もちろん自分とてどうだか、と
顔には出さないが知らず髭を撫でつける仕草に、照れくさい気持ちが滲む。


少し前までなら恋など厄だ!気持ちの惑いだ!と一蹴していたことだろう。
だが、あの騒動を通じて了見が変わった。


こういう惑いならば、厄年もまた悪くない。





【終】

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