不惑の翌年に。7



明日の未明には、ここを発たねばならない。

寝静まった生徒達を起こさないよう、小声で厚着が話しかけると


「…利吉君も仮眠を取るといい。」
「いえ、先生こそお休み下さい。私が火の番と見張りを。」
「いや、君こそ」
「いえ…」


埒のあかないやり取りに、どちらからともなく笑みが零れた。


「これじゃあ夜が明けますよ。」
「ははは、なら二人でもう少し寝ずの番をしようか。」


生徒達に布団代わりの筵をかけてやり、小屋の中から火種を持って外へ出る。
入り口付近で薪を焚き、そこで二人で見張りをすることにした。

風もなく穏やかで、厚着の今の心境のように凪いだ夜だ。
さきほどの救出劇が嘘のように、時間がゆったりと流れているのを感じる。

時折小屋の中の火も様子を見ながら、厚着は利吉の隣に腰をおろした。
肩が触れ合いそうなほどの距離で、
また変なことをしでかさないよう長めの息をついて深呼吸すると。


「――…い組が、心配ですか?」
「え?」


利吉が、厚着を気遣うようにぽつりと零す。
思わぬ問いかけに、目を瞬かせる厚着。
まったく利吉には意表を突かれてばかりである。
何と答えようか逡巡した挙句、


「いや、確かにい組は実戦不足ではあるが、他の先生方がいる。
 園田村のことは心配していないよ。」
「そうですか。」
「今、君に言われるまで気にも留めてなかった。」


肩をすくめておどけて見せれば、利吉も声を出さずに静かに笑う。


「学園長が、厚着先生とい組を別行動させるからには意図があるでしょうしね。」
「さぁ?そうかもしれないし、何も考えておられないかもしれない。」
「ふふ、本当に喰えない方だ。」


蓮の花が静かに開くような…そんな柔和な笑顔に、厚着はまた心を奪われる。



「それよりも正直…驚いていた。」


そして優しい時間に背を押されるように、少しだけ素直な感情を吐露する厚着。


「君があんなことを言い出すとは。」
「え?」
「喜三太の宿題のことだ。あの状況でよく提案してくれた。」


慌しい状況下では、ただ驚くことしかできなかったが。
落ち着いてよく考えればなかなかそこまで頭が回転するものではないのだ。


「あれは、単なる思い付きで。」


利吉からの否定を聞いても、厚着にはそうは思えなかった。

利吉は、今回の騒動とて利害の一致を理由に参戦している。
彼の目的は知らないが、喜三太の宿題と無関係なのは確かだろう。
にも関わらず。
間髪置かずそこまで気が回ったという事実に、ただ驚嘆せざるをえないのだ。


「…そうか。」
「それにまだ、全て終わった訳ではありませんから。」
「そうだな。」


未だ予断を許さない状況なのは確かだ。
どこまでも冷静で、でも茶目っ気のあるよく出来た十八歳。


前途ある若者なんて陳腐な言葉では足りない。

完璧という言葉の語源は、故事をたどれば美しい翡翠の宝玉であるという。
山田先生の“掌中の玉”である彼は、文字通り完璧な名声で
知力、教養、体力、容姿、人望…全てが群を抜き、それでいてまだ発展途上。
きっとこの室町の御世に、どこまでも行ける可能性を秘めている。

その事実が、厚着には眩しく愛しく、なぜか意識するたびに寂しい。
こんな中年の感傷など、傍から見れば滑稽にも程があるだろう。
だが、葛藤を軽々と飛び越えてしまうほど利吉に惹かれてゆく。
もっともっと本質を・素顔を知りたいという、強い好奇心が湧いてくるのだった。


「まぁ、君とこうして作戦にあたるのも今夜までか…。
 明日は学園総出で大立ち回りだからな。また賑やかになる。」
「はい。」
「今回の騒動、私にとっては幸運だった。
 学園を離れて、君と組んで、いつもと少し見える景色も変わった。
 覚えているようで忘れていたものを、もう一度拾い直した気分でな。」
「……。」


何と返したものか言葉を探す利吉に、厚着は改めて向き合う。


「この騒動が全部終わったら、また落ち着いて礼を言いたい。
 忙しい身を拘束して申し訳ないが…日を改めて二人で会う約束を
 取り付けてもいいだろうか?」
 

真摯な申し出に少し驚く利吉だったが、すぐに居住まいを正して微笑む。


「私こそお礼を言わねばならないくらいです。おそらく
 9月の下旬頃、一度父上の着物を届けに参りますから…
 ではその帰り道にどこか街道沿いの店にでも。」
「!ああ、有り難う。楽しみにしている。」


利吉との時間がこれで終わりではないと分かると、
現金なもので厚着の胸中も急に軽くなる。


二人が何となくまた黙ると、遠くでケーンと甲高い鹿の鳴き声が聞こえた。

秋の闇が、厚着と利吉この生真面目な二人を穏やかに包んでいった。








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