どこにも属さない 10


誰かが自分の名前を呼んだような気がして、
利吉は浅い眠りから目覚めた。

布団から上体を起こすと、襖越しに
断片的な話し声が聞こえてくる。

随分押し殺すような声で話しているようだったが、
気配から、時折声を荒げているのが分かる。

単語を聞き拾っているうち、
今度は確かに自分の名が聞こえた。

ふと、己が口論の火種になっているのでは…と
不安に思った利吉は、遠慮がちに襖を開け、
廊下へ顔を出したのだった。



***



「……どなたか、口論されているのですか?」


ひょっこりと首を傾げた利吉の、
視線の先にいたのは、すご腕忍者と部下。


見知った顔である。

幾分安堵の色を浮かべて、
何かあったのかと歩み寄ろうとした利吉だったが、
後方にもう一人いることに気づきハッと足を止めた。


黄昏時の薄暗い廊下に溶け込む影は、
髭をたくわえた中年の黒い忍び。

真っ直ぐに注がれるその男からの熱い視線が、
利吉を捕らえた。


途端、利吉の心臓がドクンと大きく震えて、
激しい“違和感”が利吉の体を濁流のように駆け巡る。


「ぇ……っ?!」


自分は、目の前の男を全く知らないはずだ。
初対面なのだ。

にも関わらず。
粟立っておさまらない皮膚。

体中の細胞が懐かしい懐かしいと泣き叫んでいるようだった。



―目の前の男は誰?
 ―どこかで会ったか。
  ―否、初めてだ。
   ―否、でも。



利吉の意識は、とにかく違和感の原因を割り出そうとする。

しかし、伝蔵を見ているうちに、違和感はたちまち
火でも放たれたかと思うほどの熱い焦燥感へ変化してゆく。


「?!……ぅ、あ…っ」


―ここにいては、いけない。
 ―立ち止まっていては、いけない。



その男を見ていると、何故だかとても懐かしい一方で
こんなことをしていられないという得体の知れない焦りが
次から次へ溢れ出して来る。

胸元をぎゅっと固く握り締めても、気休めだった。


何をすべきか、どこへ向かうべきかなど皆目分からないのに、
早く何とかしなければと、全身が焦燥感で焙られていた。

胸が騒ぐ。

喉が渇き、瞬きを忘れる。

耳鳴りがする。

息苦しい。


「…――――…、っ」


やがて心臓が脈打つたび、利吉の体を頭痛が蝕み始める。
視界が朦朧とし、だんだんと意識が遠のいてゆくのを
止める術はなかった。


“……どうし、ちゃったん、だろ………”


浅くなる呼吸の中で、自然と、
視線はすご腕忍者と部下の姿を求めて泳ぐ。


苦しい時は泣いてもいいと言ってくれたのに。
涙が出ない。
声すら出ない。



―ここにいては、いけない。
 ―立ち止まっていては、いけない。
  ―泣いては、いけない。
   ―忘れたく、ない。
    ―思い出したく、ない。
     ―思い出さなければ、いけない。



考えれば考えるほど、記憶が混濁してゆく。
病み上がりの体では、襖に寄りかかって立っているのが精一杯だった。




その時。

我が子の苦悶を見かねてか、
にわかに伝蔵が沈黙を破り名前を叫んだ。


「利吉…!」


鋭い哀惜に満ちた呼び声は、
刹那、利吉の意識を極めて明瞭にさせる。

声に弾かれたようにハッと顔を上げ、
見開かれた青年の茶色い瞳が伝蔵だけを映した。



けれど、そこまでだった。


もうこれ以上の刺激を、脳が拒んだのだろう。
脳髄の芯が直接揺さぶられたような衝撃と。
殴られたような激痛に襲われて。


「…ッ…!!」


頭を押さえて、利吉は糸が切れたように崩れ落ちる。


「「…り…っ!」」


皆それなりの瞬発力を持った男たちだ。
咄嗟にそれぞれ手を伸ばしたが、一番反応が早かったのはすご腕忍者だった。

伝蔵が駆け寄るより僅かに早く、利吉をしっかりと抱き止めた。
ススキヶ原の時と同じように。



けれどその直後、安心する間もなく
すご腕は目の当たりにする。


気を失ってなお、
利吉の口唇が確かに「ちちうえ」と象るのを。







11へ続く

inserted by FC2 system