うそつき
森の手前の、少し開けた場所で、半助は荷物を傍らに下ろして、そっと辺りを見回す。
すっきりと晴れ渡った空には満天の星。しかし、鬱蒼と生い茂る木々が暗い影を落とし、闇に慣れた半助にとっても視界が良好とは言い難い。
それでも。
忍だ。
辺りに人の気配がないのは分かる。
今日は珍しく、こっそり―といっても、きちんと外出届は提出しているが??学園を抜け出せたし、天候も限りなくいい。
こんなに順調なことは、滅多にない。
だから。
つい、突発的に何か面倒なことが起きてしまうのではないか、と瞬間的に思ってしまった自分に言い聞かせる。
大丈夫だ。
約束の時間まで、まだまだある。
余計な気を回すな。
逸る気持ちを抑えるように、半助は懐に手を当てて深く呼吸する。
そして。呼吸を整えたところで唐突に肩を叩かれ、驚いて振り向く。
目の前に、利吉がいた。
「うわっ」
思わず、声を上げてのけ反ってしまう。
すると、肩を叩いた利吉も半助の反応に驚いたらしく、いつもは涼やかに張った切れ長の瞳を丸くする。
「すみません、土井先生。そんなに驚くって思わなくて」
硬直したままの半助に、利吉申し訳なさそうに謝る。
そんな、僅かに上目遣いに半助を見つめる利吉に、半助もやっと笑う。
驚いたのは、確かだ。
けれど、驚いたのは利吉が思っていた以上に近くにいたことに、だ。
いつも凛と前を向く利吉は、礼儀正しく丁寧だけれど、それを装って他人を容易に寄せつけないし、半助にも時折遠慮しすぎる時がある。それに、どこか年齢以上に大人びた雰囲気を常に纏っていて、半助でも近寄りがたい時もある。
だから。利吉がこんなに間近にいるなんて思ってもみなくて、驚いた。
それに、こんな間近で、一瞬だけ垣間見れた年相応??というよりは、幼く見える上目遣いの不安そうな表情が嬉しい。
こんなことをするのは、こんな表情を見せてくれるのは、半助にだけ。
それが分かっているから、口元が緩む。
落ち着いて、やっと目の前の利吉を見つめる。
そして。利吉の凛と張った涼しい瞳もまた、半助をじっと見つめている。
月のない夜の闇。しかし、その顔の美しさと肌のみずみずしさを隠すことはできない。
光を宿す切れ長の瞳。
すっきりと通った鼻梁。
品のいい口元。
春の風に吹かれる髪の毛はつやつやとし、肌は白く、触れろと言わんばかり。
星明かりにほのかに浮かび上がる、美しく輝く気高い面立ちに、瞳を奪われる。
久しぶりに会う利吉は、暗くてはっきりと色は見えないが、いつも通りの浅葱色と薄黄色の小袖に、濃紺の袴をきちんと着こみ、さらさらの長い髪は頭のてっぺんできっちりと結っている。その傍らには、いつもと同じように大きな風呂敷包み。
やっと会えた。
それが嬉しくて、幸せで、胸が高鳴る。
目を逸らすことなんて思いつくこともなく、ただ無言で見つめあって。
同時に、吹き出す。
「君の大荷物は見慣れてるけど・・・・やっぱりお互い、凄い荷物だね」
「そうですね。土井先生のその荷物は、ちょっと新鮮です」
半助が笑いながらいうと、利吉も穏やかな声で笑う。
利吉が大きな風呂敷包みを抱えているのは、いつもの“妻の愛”で見慣れた光景ではあるが、利吉の言う通り、半助の大荷物はきり丸のアルバイトを手伝わされる時以外は滅多にない光景かもしれない。
持ち物を最小限にするのは忍の務め。
それならば。
今は忍ではないのだ。お互いに。
「待たせたかな?」
「いえ。私も今、来たところです。ちょうど土井先生のお姿が見えたので、つい」
あのタイミングで肩を叩くには、どこかに隠れていたからできたのだろう、と判断した半助の問いに利吉はあっさり首を振る。
その淀みのない口調は、本当にそうなのか、それとも用意しておいた回答を口にしているのか、半助でも判断することは困難だ。
それでも。利吉の性格からして、仕事が長引かない限り、約束より早く来ようと努力するだろう。
そして。利吉の生真面目な性格と同様に、理解している。
ここで半助がこだわって追及しても、利吉は絶対に回答を翻さない。
それならば。
“本当”なんて大した意味は持たない。
傍らに置いた風呂敷包みを持ち上げると、利吉に笑いかける。
「それじゃ、行こうか」
「はい」
半助の言葉に利吉は大きく頷く。
少なくとも。
こうやって半助だけに、輝くような笑顔を見せてくれる事に比べれば。
緩やかな傾斜の道をゆっくりと歩く。
今は月もなく、瞬く星のささやかな光が世界を照らす。
時折、枝を張り出した木々が風に吹かれ、濃い緑の匂いと色濃い闇を作り出すが、半助も利吉も忍だ。夜目が効くので視界に関しては不都合はない。
それに、元々半助はよく歩く裏々山。一年のランニングでも使う程度の山で、危険なんてほとんどない。実際に利吉も半助も大荷物を感じさせないくらいに、足元はしっかりしている。
それでも。
僅かな下り坂に差し掛かったところで、半助は身軽に先に半ばほど下りると、利吉に手を取る。
「・・・・え?」
予想していなかったのか、利吉が驚いたように顔を見つめてくる。
「この辺は水捌けが悪いんだよ。この間の雨がまだ残ってるから」
半助の言葉に利吉は足下に視線を落とす。山の中の僅かな隆起で少し下り坂になっており、土が露出したそこは、日当たりの関係か多少ぬかるんでいる。
だから、だ。
そう言って、半助は利吉を軽く支えるように手を包む。
この程度では半助も利吉も足を取られることはない。
そんなことはわかっている。
それでも。少しでも触れていたくて。
「・・・・ありがとうございます」
利吉は少しだけ逡巡を示してから、礼儀正しく頭をさげて、手を、体重を預けてくれる。
半助の手の中にある利吉の手を、強く強く意識する。
どこか少年めいたその柔らかな手は決して小さくはないが、半助の手で包めてしまう。男にしてはほっそりと長くしなやかで、華奢な印象は否めない。
そして、夜気で冷えてしまったのか、少し冷たい。
色が白い事もあり、まるで雪のようだ。
利吉を支える柔らかで華奢なこの手を、温めたいと思う。
離してしまうのが、恐くて苦しくて。
想像するだけでも胸の奥が震える。
利吉の手を、強く握る。
離してしまったら、全てが終わってしまう。
雪のように、溶けてしまう。
そんな気分に駆られて、離せない。
半助の吐いた嘘くらい、利吉なら簡単に見抜いてしまうだろう。
けれど、嫌がることも振り解くこともなく、そっと握り返してくれる。
それが、たまらなく嬉しい。
「――だからね、思わず笑っちゃって。本当なら、怒らなきゃいけないんだろうけど」
利吉の確かな感触と微かな温度を感じながら、ゆっくりと歩む。
その手の柔らかさに、温もりに、目眩がするような高鳴りを覚えるからか、言葉が出てこない。
会ったら。
久しぶりに会ったら、利吉に直接会って話したいと思うことは沢山あったはずなのに、ぽつりぽつりとかわすのは、他愛ない日常の出来事だけで。
どれほど会いたかったのか。
どれほど想っているのか。
雑用や補習などがなくて手が空いた時に、ふっと利吉の事を思い出して、その不在がどれほど寂しいのか、こうして会えた今がどれほど嬉しく、心が弾むのか。
伝えたい気持ちは溢れるほどに胸の中にあるのに、言葉にすることはできなくて。
胸の奥が熱くて、息すら苦しいくらいだ。
それでも。
「そうですね。でも、は組みらしくっていいなって思います」
利吉も穏やかに、楽しそうに笑ってくれる。
きっと利吉だって、辛いことや苦しいことや、寂しいことややりきれない事はたくさんあるのだろう。あるはずだ。
フリーの忍の厳しさは、半助だって十重に承知している。
それでも。そんなことはちらりとも見せずに、利吉は半助の横で穏やかに、楽しそうに笑ってくれている。
「それに・・・・土井先生らしくって」
ちらりと半助を見あげた利吉が、真っ直ぐに瞳を見つめてぽつりと呟く。
言ってから。
「そんなに見ないでください」
「えー。いいじゃないか」
自分の言葉と行動に恥ずかしくなったのか、半助の視線を避けるように利吉は顔をそむける。
それでも。きゅっと繋いだ手に力を込めてくる。
そんな利吉が、可愛くて仕方ない。
嬉しくて、幸せで胸がいっぱいになる。
それ以外の物が入る隙間なんてこれっぽっちもなくて、日々の不満も愚痴も、寂しさも辛さも忘れてしまう。
言葉にできないのは、お互い様だ。
それでも。それでも、きちんと伝わるものはある。
強がりでも何でもなく、それが分かる。
だから。半助もしっかりと手に力を込めた。
「着いたよ」
林を抜けた、崖に近い開けた場所で荷物を下ろす。
春ではあるし、お互いに夜通し屋外にいることも経験上少なくはないので慣れており、凍えるほどではないが、やはり夜は寒い。
それに、利吉を夜露に濡らすのも嫌だし、地べたに座ると地面に熱を取られて風邪なんて引かせてしまっては困るので、半助は大荷物の中から取り出した敷布を見晴らしのいい場所に広げ、簡単な野営の準備をする。
利吉も慣れているので、何も言わなくともさっと半助を手伝ってくれ、場はすぐに整う。
「狭くて申し訳ないんだけど」
「いえ」
半助が先に腰をおろして胡坐かきながら謝ると、利吉はきっぱりと首を振り、少しだけ迷ってから半助の横に腰を下ろす。
そんなことにさえも、見惚れてしまう。
簡単な何気ないことなのに、一つひとつの動作からにじみ出てくるような立ち居振る舞いの格調高さ。そして、輝かんばかりの整った面立ち。
狭い敷布の上。肩が触れる距離にいると、それだけでぱっと灯りがついたような気分になる。
「土井先生?」
「あぁ、ごめん。はい、これ」
じっと見つめる半助を不思議そうに見返す利吉の視線に、半助は慌てて懐から取り出した竹皮の包みの一つを手渡す。
「三夜様にこれだけって、ちょっと寂しいんだけどね」
これまた懐から、温かいお茶を入れてきた竹の水筒をくるんでいた布を外して、半助と利吉の間に置く。せめて酒くらいは用意できれば良かったのだが。
半助が苦笑交じりに言い訳めいた事を口にしながら、自分用の竹皮を開く。そこには、おにぎりが一つだけ。
本当に、宴には程遠くて情けなくなる。
「・・・・利吉くん?」
反応が返ってこないことに、恐る恐る利吉に視線を向けると、開いた竹皮の上のおにぎりをじっと見つめていた。
真剣な表情の利吉は、はっと息を呑むくらいに美しくて、そして、どこか近寄りがたい。
恐い訳ではない。
それでも。咄嗟にだらしなく胡坐をかいていた自分の居住まいを正さなくては、と思うような、畏敬の念に駆られる。
「そんなこと、ありません」
半助の声は、届いていたらしい。凛とした利吉の声が、夜の闇の中に響く。
強い意志の宿った瞳で半助を見て、丁寧に頭を下げる。
「土井先生、ありがとうございます。いただきます」
「あ、うん」
礼儀正しく手を合わせた利吉は、迷うことなく一口、おにぎりを食べる。
半助も半ば気圧されるような気分で、利吉に倣うように口をつける。
だいぶ冷めてはしまったが、それでもお茶と一緒に持っていたのが功を奏したのか、まだ確かに感じ取れるくらいの温もりを保っている。それに、形はおばちゃんが作ったようにきれいとまでは言えないが、形もそれなりに上手く出来ているし、塩気も握り加減も悪くない・・・・と思う。
それを確認して、半助はほっと安堵の息をつく。
すると、途端に利吉の反応が気になってしまい、おにぎりを食べるふりをしてそっとその横顔を盗み見る。
最初の一口目を、ゆっくりと丁寧に咀嚼した利吉は、見られている事に気づいたのか顔を半助へと向ける。
自分のことになると控えめ過ぎるというか、恥ずかしがる利吉だ。半助にとってはどんな姿でも綺麗だし、記憶にとどめたいと思うけれども、利吉としては食事をしている所を見られるのは嫌だったかと後悔しかけた半助に、利吉はこぼれんばかりの笑顔になる。
「すごく・・・・すごく、美味しいです」
美しい瞳を半助に据えて、言葉の一つ一つを、きちんと丁寧に、意志を込めて利吉は言う。
「ありがとうございます、土井先生」
その声、言葉、響き、瞳。
利吉の全てが、半助の心の深くて柔らかい部分を、震わせる。温かな、それでも“何か”としか言いようのない物が、胸に広がる。
半助は、何も言わない。利吉も、何も言わない。
それでも、利吉の事だ。
頭がよくて、聡くて、生真面目で、優しくて、意外と不器用で。
些細なことから色んなことを察してしまう。そして、気づいてしまったら、それに甘んじることなく、さりげなく先回りをして気を遣う。
気づいてくれるのは、正直に、嬉しい。
そして同時に、ちょっと勘弁して欲しいと思ってしまうこともある。
それは、半助が利吉に対して、ええかっこをしたいからだと、分かっている。
それでも。半助の方が年上で、それなりに経験を積んでいる訳だし、フリーの忍なんていうきつい仕事をしている利吉に、仕事でない時くらいは甘えてもらいたい。頼って欲しい。
それに。恋人同士だ。
少しくらい、甘えや我儘や悲しみや迷いや弱音を、出してくれたっていい。
全部ちゃんと受け止めるよ。
それくらいの覚悟は、ちゃんとあるよ。
いつか、きちんとその事を伝えたいと、そう思う。
それにね。
真剣な面持ちでおにぎりを食べる利吉に、心の中で呼び掛ける。
そもそも、利吉が考えているようなことは、半助にとっては苦労でも何でもないんだ、と。
こう見えても、半助だって忍だ。食堂のおばちゃんにだって、吉野先生にだって、そして・・・・山田先生にだって。それらしい事を言うくらい、楽なものだ。
だから、そんなことに恩義を感じる必要はないんだ。
そもそも、今回のことだって、半助がしたくて勝手にしたこと。
こうやって、自分が作ったものを、利吉が美味しいと、心から喜んでくれる事が、丁寧に味わってくれる事が何よりも、嬉しい。
それ以上の喜びは、ない。
おにぎり一つ、という食事を終えたところで、少し風が強くなってくる。
「利吉くん、寒くない?」
夜もだいぶ更けてきている。春とはいえ、この時間になればかなり底冷えする。その上、吹く風は冷たく、食事で保った体温も少しずつ奪われていくのが分かる。
しかし、利吉はきっぱりと首を振る。
「あの・・・・でも、よかったら、これを」
傍らに置いていた風呂敷を開いて、中の物を差し出してくる。
大きなそれを受け取って驚く。
大きさの割にはふわりと軽く、柔らかな感触。
毛布だ。
「どうしたの? これ」
半助も話には聞いたことがあるし、数回は目にした事はあるが、こんな風に手にするのは初めてだ。
「先達ての仕事の報酬で、下賜されたんです」
驚いて利吉と毛布とを交互に見やる半助に、当の利吉は軽く微笑む。まるで何事もないかのように。
「こんな高価な物、断ろうかとも思ったんですが、ちょうどいいかなって思って、ありがたく頂戴してきました」
利吉はさらりと言うけれど、南蛮渡来の毛布を易々と下賜することに見合う仕事、というのは並大抵の物ではない筈だ。
もしかして・・・・。
今日の、この日の為に、利吉が無理をしたのではないだろうか。
その心配が、知らずに表情に出たらしい。利吉がくすくすと、口元に手を当てて笑う。楽しそうでありながら、どこか気品を感じさせる利吉に、半助は目を瞬く。
「信じました?」
「・・・・え?」
瞳を輝かせて覗きこんでくる利吉の悪戯っぽい表情に、その距離に、僅かにかかる利吉の息の温かさに、妙に心が高鳴って、色々な事が上手く捉えられない。
「嘘です。借り物なんです」
「借り物・・・・?」
「はい」
利吉は頷いて、楽しそうに語る。
仕事でさる豪商の屋敷に忍び込んだ際、買ったはいいが高価だからと厳重にしまいこみ、蔵の奥深くで眠っている品々の中に、この毛布もあったのだという。
「物だって、後生大事にしまいこまれているより、本来の役目を果たしている方が幸せでしょう? ちゃんと後で元の場所に戻しますから、拝借です」
笑顔で、それでも声だけはいつもと変わらず生真面目に凛と響かせて言い切る利吉に、半助も笑うしかない。
それに。意外な気もするが、わざわざ返すという律義さと、ある物は利用するという合理性は、利吉らしいと言えば利吉らしい。
「だから、使って下さい」
「でも・・・・」
半助も忍だし、使える物は何でも使う合理性も持ち合わせている。
それでも。広げた毛布は少し小さくて、大人二人が暖を取るには、少しばかり無理がある。半助一人がぬくぬくと温まるのは気が引ける。
躊躇う半助に、利吉は笑顔のまま続ける。
「私は雪深い田舎の出身ですし、寒いのには慣れております。それに、土井先生より若いですから、この程度では風邪をひいたりしませんよ」
だから、と冗談めかす利吉に、半助もゆっくりと笑顔になる。そして、小さめの毛布を広げる。
「そうだねー。確かに、私は利吉くんよりおっさんだし」
「そ、そういう訳では・・・・」
半助の言葉に、急に焦ったような表情になって慌てて弁明する利吉に言葉は返さず、半助は広げた毛布を背中に回し、纏うように肩に掛けてくるまる。
そして。
さっと移動し、油断している利吉を背後から抱き締める。
包むように??と、いうよりは、半助の腕なのかに閉じ込めるように。
「え。ちょ、土井先生っ!」
利吉は慌てたように逃げようとするが、利吉の腕の下に通した半助の手は、毛布の下でしっかりと利吉の胸の前で手を組んでいるし、脚でも利吉を挟み込むように抱きしめているので、ほとんど動けない。
春の風で僅かに冷えていた利吉の小袖の冷たさが何故か嬉しくて、抱き締める腕に力を込める。
「先生っ」
手と同様に、半助よりもどこか華奢でしなやかなその身体。
今まで幾度となく抱きしめた事くらいあるのに、それでも上ずった悲鳴のような声を上げる。
それが、愛おしい。
「なんで、こんなっ」
「利吉くんは、寒いの、平気なんだろう? 私は苦手だからね。利吉くんが温めてくれよ」
ただ単に、触れていたいから。
そんな本音は冗談に紛らせて、半助は利吉の肩に顔を埋める。
利吉の微かな匂いが、確かな体温が、首筋に触れる柔らかな髪の感触が、身体から直接伝わる鼓動が。
身体に満ちてきて、錯覚に陥る。
利吉を抱き締めているのは半助なのに、包まれているのは、囚われているのは、いつだって半助の方だ。
「先生・・・・」
利吉の柔らかな手が、組まれている半助の手に重ねられる。
強く、解かれるのかと、心の片隅で恐怖を感じながらもじっとしているが、利吉はただ、半助の手に手を重ね、穏やかに触れているだけ。
その感動的な肌の感触が、温もりが、急に胸に迫ってくる。
そして。
気づいた時には、組んでいた手を解き、利吉の手に重ねていた。
「・・・・利吉くん」
名前を呼ぶと、利吉は躊躇いがちに振り向いて、ゆっくりと伏せていた視線を上げる。
目と目が、合う。
とても自然に。
まるで決められていた事のように。
疑いを差し挟む余地もないくらいに、当然に。
唇が、重なる。
利吉の唇の柔らかさは、その温かさは、その香りは、半助が知っている何にも似ていなくて。
心の奥の奥、とても深くて柔らかな部分に触れた気がした。
そして、温かい物に満たされる。
耐え難いくらいに、貴い何かに。
触れていた唇が、ゆっくりと離れる。
それは、永遠のような、一瞬のような時間で。
そして。
大丈夫だ、と思う。
まるですとんと、空から降ってきたような唐突さで。心で微かな光が瞬くように。そしてそれを、当たり前のように受け入れていた。
一体何が大丈夫なのかや、何故かとか、考えるべき事はたくさんあるはずなのに、半助は何の疑問も思い浮かばず、納得する。
大丈夫だ、と。
急に、胸が熱くなり、喉の奥が狭くなった気がした。締め付けられるような痛みを感じる。
呼吸さえ上手くできなくて、潤み始めた目を瞬いて、自分が泣きそうになっているのだと自覚した途端、子どもみたいに、わあわあと大声を上げて泣きたい気分に駆られる。
悲しくもないのに。
「土井先生・・・・?」
半助を見上げていた利吉の、心配そうな声が耳に届く。
身体を通して響くような利吉の声が、その空気の震わせ方が優しく穏やかで、いつまでも半助の耳を柔らかく刺激し、半助の心を揺らす。それすらも嬉しくて、気が緩んで泣きそうになるのを必死で堪える。
初めてじゃあるまいし。
ただ触れるだけの口づけで、こんなに感極まって泣きそうになるなんて、思ってもみなかった。
自分にも、こんな風に心が動かされることがあるのかと驚く。
それと同時に、利吉に知られたくない、とも思う。
余裕がなさ過ぎて恥ずかしい。
どうにか誤魔化そうとした、その時。
半助を見つめていた利吉の顔が輝く。
「月」
するりと言葉がこぼれ落ちる。半助の声に反応して、利吉も東の空を見る。
空の端に、願いを叶えてくれるという半月がゆっくりと登りだし、冴え冴えとした銀の光で世界を照らす。
その瞬間。
風が凪ぎ、葉のざわめきがまるで潮が引くみたいに、すっと止んだ。
世界中が静寂に包まれたような気がした。
そして、同時に言葉をなくした。
眼下に広がる、一面の桜の森。
薄紅の花が、銀光に浮かび上がる。
昼間、半助は何度か見ていた。だからこそ、利吉にも見せたいと誘ったのだ。
けれど・・・・。
闇から浮かび上がるその光景は、あまりに綺麗過ぎて。
言葉が出てこない。
ただ。胸の奥がざわざわとする。しかし、そのざわつきは嫌な感覚ではない。
利吉が、耐え兼ねたように、長くため息をつく。
銀の光に照らされたその横顔は、目の前の景色に負けず劣らず美しい。
それでも。どこか畏怖を感じているのか、重ねたままの手に力が込められていた。それは無意識だったのか、はっと気づいた利吉が慌てたように手を離そうとする。
しかし、一瞬早く、半助はその手を握り返す。
そして、驚いて半助を見上げる利吉に、そっと囁く。
「大丈夫」
あの時。心で微かに瞬いた光のように、自然に浮かんだ言葉を口にする。
何の根拠もないけれど、口にすると本当にそんな気がして、確信に満ちて繰り返す。
「大丈夫」
利吉の表情が、ゆっくりと笑顔になる。
まるで、世界に一つしかない、誰も目にした事のない花がほころんでいくように。
それはとても、貴いもののようで。半助も自然と笑顔になる。
そして、そっと身体を預けてくれる。
その重さをしっかりと、全身で受け止める。
願いを叶えてくれる、という半月。
願い事はたくさんあったはずだけれど、今は何一つ思い浮かばず、ただ、利吉を抱きしめて闇を切り裂く光を、穏やかに見上げる。
利吉と一緒にいられるだけで。
ただ、利吉とこうしていられるだけで。
半助は十分に幸せだから。
終
■謝辞
2010年3月、スナッチ様の素敵サイト「二十三夜待ち」が二周年を迎えられました!
おめでとうございます!!!
…ということで、素敵小説「うそつき」をフリー配布されていたので
厚かましくも拙サイトで展示しても良いですか?とお願いしたかえる。
既に皆様、スナッチ様のサイトでお読みになられてるでしょうし、
うちのような辺境サイトに展示しても豚に真珠状態だ…と思ったのですが、
フリーというお言葉に甘えられるものならば、どうしても「利吉屋」に展示したかったのです。
って言うのも「合戦場のおにぎりの段」の利吉さんに、
実はかなりの思い入れがありまして。
もちろん、例の切ない台詞が原因です。じゃあ利吉さんはどうなのさ!!って叫びました、当時。
だからむしろ、スナッチ様が書かれたこのお話が伏線としてあったからこそ、
あの「合戦場のおにぎりの段」の穏やかな利吉さんがいたんじゃないか、
こういう土井先生とのあったかくて優しい恋があるから、
利吉さんは繊細で傷つきやすくてもフリーで戦場に立っていられるんじゃないかって。
このお話は拝読した瞬間、(勝手に)「合戦場のおにぎりの段」と永久セットとなりました。
快く了承してくださったスナッチ様、本当に有り難う御座います!!
いつか…いつか…もっと文章が上手に書けるようになったら…お礼を……したいです……orz