うそつき





 








 森の手前の、少し開けた場所に辿り着き、利吉はそっと辺りを見回す。
 すっきりと晴れ渡った空には満天の星。しかし、鬱蒼と生い茂る木々が暗い影を落とし、闇に慣れた利吉にとっても視界が良好とは言い難い。
 それでも。
 忍だ。
 辺りに人の気配がないのは分かる。
 今日の為に仕事を出来る限り早く終わらせたのが功を奏し、予定よりも早く待ち合わせ場所に付けた。その上、木陰から見える空も雲ひとつなく、満天の星が輝いている。
 こんなに順調なことは珍しくて。
 一瞬、何かと発的な事件や厄介なことが起きて、遅れてしまったり来れなかったりするのでは、嫌なことを想像してしまう自分に言い聞かせる。



 大丈夫。
 約束の時間までは、まだまだある。
 余計な事を考えてはいけない。
 逸る気持ちを抑える様に、利吉は胸に手を当てて、深く呼吸する。



 長い時間を掛けて、ゆっくりと気持ちを落ち着けたところで、不意に人の気配に気づく。思わず本能的に闇に身を隠した利吉は、見慣れない影の輪郭に一瞬戸惑う。
 けれど。
 利吉の隠れた木陰の間近で足を止めたその人は、紛れもなく土井先生で、利吉は心の中で安堵の息をつく。
 高鳴りそうになる胸を抑えつけ、呼吸を整えたところで、利吉はその肩を叩く。
 さっと機敏に振り返った土井先生は、目の前にいる利吉に目を丸くする。


「うわっ」
 どうやら、嬉しさのあまり距離感を間違えたらしく、土井先生が声を上げてのけ反る。
 そんな反応をされるとは想像もしていなくて、利吉も驚く。
「すみません、土井先生。そんなに驚くって思わなくて」
 硬直したままの土井先生に、本当に申し訳なくて、俯きそうになるのを何とか堪え、目を見て謝る。
 いつもとは違う意味でドキドキしながら待っていると、やっと、土井先生がゆっくりといつもの笑顔を浮かべてくれる。
 それが嬉しくて、ほっとして、口元が緩む。



 やっと落ち着いて、目の前の土井先生を見つめる。
 そして。土井先生の穏やかで温かい瞳もまた、利吉をじっと見つめている。
 月のない夜の闇。それでも、土井先生の精悍な顔立ちと滲み出るような優しさを隠すことはできない。
 闇の中でも穏やかな光を湛える大きな瞳。
 少し太めの、意志の強さを示す眉毛。
 優しげな口元。
 精悍さと子どもっぽさが奇妙に、でもすんなりと調和している風貌が、不思議と安心感を与えてくれる。
 星明かりにほのかに浮かび上がる、優しく穏やかな精悍さに、瞳を奪われる。



 久しぶりに会う土井先生は、暗くてはっきりと色は見えないが、いつもの白地に青い線の入った小袖に、濃紺の袴。頭には使いこまれた烏帽子。そして。その傍らには、珍しく大きな風呂敷包み。
 やっと会えた事が嬉しくて。
 見つめられて恥ずかしいのに、それ以上にもっと土井先生を見ていたくて。
 目を逸らすことさえ思いつかず、ただ無言で見つめあって。
 同時に、吹き出す。



「君の大荷物は見慣れてるけど・・・・やっぱりお互い、凄い荷物だね」
「そうですね。土井先生のその荷物は、ちょっと新鮮です」
 土井先生が面白そうに言ってくれるので、利吉も安心して笑う。
 利吉が大きな風呂敷包みを抱えているのは、いつもの“妻の愛”で見慣れた光景ではあるが、土井先生の大きな荷物は、滅多に見たことがない。
 きり丸君のアルバイトを手伝う時は、そんな大荷物になることもあるらしいが、利吉がその光景に出くわすことは、今のところないので、初めてかもしれない。
 それでも、少しだけ、嬉しい。
 持ち物を最小限にするのは忍の務め。
 それならば。
 今は忍ではないのだ。お互いに。


「待たせたかな?」
「いえ。私も今、来たところです。ちょうど土井先生のお姿が見えたので、つい」
 土井先生の穏やかな声に、利吉はあっさりと首を振る。
 多少待った気もするが、待ったと訴えられる程長い時間ではない、自分の気持ちを落ち着かせていたらあっという間だった。
 だから、否定する。
 それに、仕事を終えてしまえばそれきりの利吉と違い、土井先生の仕事はどこからどこまでと区切りをつけるのが難しいのはよく知っている。
 それでも、こうして約束の時間より前に、当然のように来てくれた。
 それだけでも、利吉にとっては嬉しいことだ。
 だから。
 “本当”なんて大した意味は持たない。

 傍らに置いた風呂敷包みを持ち上げると、土井先生が笑いかけてくれる。
「それじゃ、行こうか」
「はい」
 土井先生の言葉に利吉は大きく頷く。
 少なくとも。
 こうやって利吉だけに、嬉しそうに笑いかけてくれる事に比べれば。



   緩やかな傾斜の道をゆっくりと歩く。
 今は月もなく、瞬く星のささやかな光が世界を照らす。
 時折、枝を張り出した木々が風に吹かれ、濃い緑の匂いと色濃い闇を作り出すが、土井先生も利吉も忍だ。夜目が効くので視界に関しては不都合はない。
 それに、一年生のランニングでも使う裏々山。利吉も昼間ではあったが、何回か通ったこともある。油断する気はないが、さほど危険でないことは承知している。
 それでも。
 僅かな下り坂に差し掛かったところで、土井先生は身軽に先に半ばほど下りると、利吉に手を取る。
「・・・・え?」
 唐突に手を取られ、予想していなかった利吉は驚いていつもより低い位置にある土井先生の顔を食い入るように見つめてしまう。
 そんな利吉に、土井先生はさらりと言う。
「この辺は水捌けが悪いんだよ。この間の雨がまだ残ってるから」
 言葉につられるように、利吉は足下に視線を落とす。山の中の僅かな隆起で少し下り坂になっており、土が露出したそこは、日当たりの関係か確かに多少ぬかるんでいる。
 だから。
 そう言って、土井先生は利吉を軽く支えるように手を包む。
 いくら多荷物とはいえ、この程度のぬかるみで脚を取られる程やわではない。
 今までも、土井先生は大荷物を感じさせないくらいに、足元はしっかりしていたし、利吉の荷物はかさばるだけで大した重量ではないので、足元がふらつくなんてあり得ない。
 利吉を支えてくれる手は、どうしても必要な訳ではない。



「・・・・ありがとうございます」
 利吉は逡巡してから、頭を下げて軽く体重を預ける。
 甘えてしまうのは申し訳ない。
 それでも。
 土井先生の手が、とても力強く逞しくて。
 手を離すなんて考えることもできなかった。



 利吉の手を包む、土井先生の手を強く強く意識する。
 普段は特段、意識することはないけれど、こういう時に、自分の手が頼りないようで、引け目を感じてしまう。
 利吉も男だ。
 土井先生の手に比べて一回り小さい、なんてことはないけれど、今のようにして比べると、情けないくらいに細く華奢で、悔しい。
 それでも。
 土井先生の手がとても頼もしくて、温かくて。
 離れてしまったら、きっと、物凄く寒くて寂しくなる。
 想像するだけでも、胸の奥が震える。
 そんな利吉の不安を察したように、土井先生は手に力を込めてくれる。
 それが嬉しくて、もっと近くに、もっとしっかりと感じていたくて、離せない。
 利吉のこんな欺瞞なんて、土井先生ならば簡単に見抜いてしまうだろう。
 けれど、その温かさと強さに甘えるように、利吉はそっと握り返す。




 
「――だからね、思わず笑っちゃって。本当なら、怒らなきゃいけないんだろうけど」
 土井先生の確かな感触と確固とした温度を感じながら、ゆっくりと歩む。
 頼る手の逞しさに、力強さに、熱に、目眩がするような高鳴りを覚えるからか、言葉が出てこない。
 会ったら。
 久しぶりに会ったら、土井先生に直接伝えたいと思う言葉は沢山あったはずなのに、ぽつりぽつりと出てくるのは、他愛ない日常の出来事だけ。
 それも、利吉は土井先生の言葉に頷くだけで、手一杯になってしまう。



 どれほど会いたかったのか。
 どれほど想っているのか。
 仕事が終わった時などに、ふと土井先生を思い出して寂しくなったり、こうして会えている今が、どれほど嬉しいのか。
 伝えたい気持ちはまとめきれない程胸の中にあって、言葉にすることはできなくて。
 胸が塞がれるようで、呼吸すらままならない気がする。
 それでも。


「そうですね。でも、は組みらしくっていいなって思います」
 必死に言葉にして、伝える。
 土井先生だって、日々の生活の中で、嫌なことや苦しいことや、些細な怒りややりきれない事はたくさんあるはずだ。
 教師の厳しさは、利吉もそれなりに知っている。
 それでも。そんなことはおくびにも出さずに、土井先生は穏やかに、そして、まるで少年のように楽しそうに利吉に笑いかけてくれる。
 だから。
「それに・・・・土井先生らしくって」
 土井先生を見上げ、その穏やかな眼差しを信じて、決意を込めて告げる。
 それでも。
 言ってから、急に恥ずかしくなる。


「そんなに見ないでください」
「えー。いいじゃないか」
 顔をそむけるが、土井先生はちょっと意地悪そうに、そして物凄く嬉しそうに笑う。
 その余裕が、ちょっとだけ面憎くて、繋いだ手に力を込める。
 それでも、嬉しそうな土井先生の雰囲気は伝わってきて。
 手の温かさに釣られるように、利吉も幸せで胸がいっぱいになる。
 それ以外の物が入る余地なんて全くなくて、時折胸に迫る辛さも、寂しさもやりきれなさも、忘れてしまう。
 言葉にできないのは、きっと土井先生も同じ。
 それでも。土井先生はしっかりと利吉の手を握り返してくれる。
 こうしていると、きちんと伝わるものはある。
 強がりでも虚勢でもなく、それが分かる。




 
「着いたよ」
 林を抜けた、崖に近い開けた場所に出て、土井先生が荷物を下ろす。
 春ではあるし、お互いに夜通し屋外にいることも経験上少なくはないので慣れており、凍えるほどではないが、やはり夜は寒い。
 そんなことを思っていると、土井先生は大荷物の中から取り出した敷布を、見晴らしのいい場所に広げて、手早く野営の準備を始める。
 利吉もこういうことには慣れているし、土井先生一人にやらせるのも申し訳なく、簡単な手伝いをすると、あっという間に場は整う。
「狭くて申し訳ないんだけど」
「いえ」
 先に座っていいと勧められても、土井先生より先に座るのは、性格的なこともあって気後れしてしまう。
 それを知っているからだろう。
 土井先生は迷いもなく先に腰をおろして胡坐かき、利吉を誘ってくれる。利吉は、自分の荷物を出そうか、少しだけ迷ってから土井先生の横に腰を下ろす。
 簡単な、何気ないことだけれど、土井先生の所作からにじみ出てくるような優しさや些細な気遣いが嬉しい。
 狭い敷布の上。肩が触れる距離にいると、穏やかな光に包まれるような気がして、ほっこりと安心できる。
 それが嬉しくて、そっと視線を上げると、じっと土井先生が利吉を見つめている。


「土井先生?」
「あぁ、ごめん。はい、これ」
 不思議に思って首を傾げると、土井先生は慌てて懐から取り出した竹皮の包みを一つ、利吉に手渡してくれる。
「三夜様にこれだけって、ちょっと寂しいんだけどね」
 土井先生が苦笑交じりに言いながら、これまた懐から、竹の水筒をくるんでいた布を外して、土井先生と利吉の間の、取りやすい位置に置いてくれる。
 利吉は手の中にしっかりと重みのある竹皮を開く。そこには、おにぎりが一つ。
 少し大きめのそのおにぎりは、角がピンと立っており、とても丁寧に握られているのが見ただけでわかる。そして、竹皮を通しても伝わってくる、そこにある確かな温もり。
 すぐに、わかる。
 だれが握ってくれたのか、が。


「・・・・利吉くん?」
 利吉がじっとおにぎりを見つめていたからだろう。
 恐る恐る掛けられた声に、利吉ははっと我に返り、土井先生に向き直る。
 なにも用意しなかった利吉には、土井先生の言葉はとんでもない。
「そんなこと、ありません」
 きっぱりと首を振って否定し、口を開く。
 少しでも、ほんの少しでもいいから、この気持ちが伝わる事を願って。
「土井先生、ありがとうございます。いただきます」
「あ、うん」
 自然と手を合わせると、利吉はおにぎりを一口頬張る。


 まだ、確かに感じられる温もりを持ったおにぎりは、とても単純で、そして、今まで食べたどんな物よりも美味しかった。
 微かに感じる程度の塩気と、柔らかすぎず、硬すぎず、噛めば口の中でほろりとほどけるような握り加減。
 気取ったところは何一つない。それでいて、優しさや利吉への気遣いが、しっかりと伝わってくる。
 裏々山とはいえ、学園からはそれなりの距離を歩いてきているし、当然時間も経っている。
 温かいお茶の入った水筒と一緒に、土井先生の懐に入れられていた。それで、ある程度の温度を保つことは可能だ。
 それでもまだ温かい、ということは、それだけでは難しい。
 おそらく、このおにぎりは学園を出る直前に作られたのだろう。


 おにぎりを作る。


 言葉にしてしまえば、簡単なこと。
 けれど、学園でそれをするのは、とても多くの障害がある事を、利吉は知っている。
 食堂のおばちゃんや誰かにきちんと説明しなければいけないし、それが上手く出来たとしても、温かいおにぎりを作るには、この時間にご飯を炊く、という作業が必要になる。
 それに、土井先生が学園を出たのは消灯前の時間の筈。
 授業がなかったとしても、自由時間だったとしても、暇な身ではないのは知っている。
 学園長の気紛れや、雑用もあったかもしれないし、試験を作ったり採点をしたりする必要があったかもしれない。明日の授業の準備だって必要だっただろう。


 それでも。
 土井先生は何も言わない。
 苦労なんて何もなかったかのように、当然のように待ち合わせ場所に来てくれて、笑顔で利吉の為に細心の注意を払ってくれる。
 その、心遣いに。
 胸の奥の奥が、震える。
 噛みしめている内に、溢れそうになる感情を、胸にこみあげてくる熱いものを必死に堪えて、慎重に飲み下す。
 そして。
 横にいる土井先生へと顔を向ける。
 泣きそうになるのはぐっとこらえて、笑う。


「すごく・・・・すごく、美味しいです」
 土井先生は何も言わない。利吉も、気づいたことは何も言えない。
 言ったら、せっかくの土井先生の気遣いを無下にしてしまう気がして。
 けれど、きちんと想いを伝えたくて、一言一言に、意志を込めて、意識的に明瞭に発音する。
 そうしないと、言葉と一緒にすぐに涙が、感情が溢れてしまいそうで、恥ずかしかった。


「ありがとうございます、土井先生」
 利吉のことなんて、何でもお見通しの土井先生の事だから、きっと気づいているだろう。
 それでも、何も言わないで頷いてくれる。
 だから。その優しさに甘えるように。
 利吉はゆっくりと、おにぎりの残りを、よく噛んで味わう。
 おにぎりひとつで、心も身体も、しっかりと満たされた。
 そんな気がした。




 
 ゆっくりとした食事を終えたところで、少しだけ風が強くなってくる。
「利吉くん、寒くない?」
 夜もだいぶ更けてきている。春とはいえ、この時間になればかなり底冷えする。その上、吹く風は冷たく、食事で保った体温も少しずつ奪われていく。
 しかし、利吉はきっぱりと首を振る。
「あの・・・・でも、よかったら、これを」
 土井先生が横にいてくれる今、仕事の時に比べれば、こんなもの寒さでもなんでもない。けれど、出す機会を失っていた風呂敷を開く。
 せっかく用意したのだから、やはり使って欲しくて土井先生に差し出す。


「どうしたの? これ」
 やはり、察しのいい土井先生は、毛布を受け取って目を丸くする。
「先達ての仕事の報酬で、下賜されたんです」
 驚いて利吉と毛布とを交互に見やる土井先生に、利吉は軽く微笑んで、用意しておいた答えを口にする。
「こんな高価な物、断ろうかとも思ったんですが、ちょうどいいかなって思って、ありがたく頂戴してきました」
 利吉のちょっとそっけない言葉に、しかし、土井先生はすぐに眉間にしわを寄せる。
 南蛮渡来の高価な毛布。それを下賜されるなんて、どんな大変な仕事だと、一体どんな無茶をしたのだと、おそらくはそんな事を想像して、利吉のことを心配してくれているのだろう。


 それは、正直にすごく嬉しい。
 けれど、それと同時に、ちょっとだけ悲しい。
 土井先生より七つも年下で、一流などと言われるけれど、まだまだ経験も足りなくて、些細な事で迷ったり、傷ついたりすることもある。
 それでも。ずっと心配される対象のままでいるのは、嫌だ。
 だから、利吉は笑う。
 土井先生の反応が、想像通りだったことに、ほんの少しだけ安堵しながら。


「信じました?」
「・・・・え?」
 利吉が唐突に笑いだしたからだろう。土井先生が元より大きな瞳を丸くして、ぱちぱちと瞬く。
 それがちょっとだけ嬉しくて、利吉の口元が押さえようと思ってもほころぶ。
「嘘です。借り物なんです」
「借り物・・・・?」
「はい」
 利吉は頷いて、続ける。嘘の話を。
 仕事でさる豪商の屋敷に忍び込んだ際、買ったはいいが高価だからと厳重にしまいこみ、蔵の奥深くで眠っている品々の中に、この毛布もあったのだ、と。
「物だって、後生大事にしまいこまれているより、本来の役目を果たしている方が幸せでしょう? ちゃんと後で元の場所に戻しますから、拝借です」
 嘘を真実だと証明するのは、難しい。
 けれど、嘘を嘘だと証明するのは簡単だ。それにかこつけて、論点をずらしてしまうのも。
 笑顔で言い切ると、ちょっと呆気にとられていた土井先生も苦笑交じりではあるが、“毛布を手に入れた経緯”については納得してくれたらしい。


「だから、使って下さい」
「でも・・・・」
 それでも。土井先生は毛布を広げて迷っている。
 実のところは、仕事でかかわった南蛮人の貿易商に、通常よりはかなり安価で譲ってもらったものだ。しかし、安価だったせいか、少し小さく、人一人が使うのがやっと、といったところだ。
 躊躇う土井先生に、利吉は笑顔のまま続ける。
「私は雪深い田舎の出身ですし、寒いのには慣れております。それに、土井先生より若いですから、この程度では風邪をひいたりしませんよ」
 冗談めいた口調で告げる。それは本当のこと。それでやっと納得してくれたのか、土井先生はゆっくり笑顔になると、小さめの毛布を広げる。


「そうだねー。確かに、私は利吉くんよりおっさんだし」
「そ、そういう訳では・・・・」
 しまった、と思う。
 土井先生の口調は柔らかなまま。けれど、事が順調に運んでいる事でつい調子に乗って、触れてはいけないところにまで、踏み込んでしまったかもしれない。
 慌てて弁明しようとする利吉を気にした風もなく、土井先生は広げた毛布を背中に回し、纏うように肩に掛けてくるまる。
 そして。
 使ってくれるらしい事に安堵し、油断している利吉の背後にさっと移動すると、後から抱き締める。


「え。ちょ、土井先生っ!」
 土井先生と毛布とに包まれて、利吉は慌てて逃げようとするが、土井先生は抜け目なく利吉の胸の前でしっかりと手を組んでいて、しかも、脚でも利吉をがっちりと挟み込んでいて、身じろぐことさえできない。
 唯一、土井先生の腕は利吉の腕の下を通っているので、手は自由になるけれど、身体に直に伝わってくる土井先生の温かさに、嬉しくて恥ずかしくて、どうしていいかわからなくて、硬直してしまう。
 そんな利吉をからかうように、土井先生の腕により力が込められるのが分かる。
「先生っ」
 腕の逞しさと、背中に感じる鼓動。そして、首筋にかかる土井先生の温かな息。今まで、幾度となく抱きしめられた事があるはずなのに、恥ずかしくて、声が情けなく上ずる。
 それが余計に利吉の羞恥を煽り、焦って言葉がうまくまとまらない。


「なんで、こんなっ」
「利吉くんは、寒いの、平気なんだろう? 私は苦手だからね。利吉くんが温めてくれよ」
 冗談めかして、土井先生は利吉の肩に顔を埋める。
 途端に、土井先生の確かな体温を、温かな匂いを、うなじをくすぐるような吐息を、背中から伝わってくる鼓動を。
 よりはっきりと意識してしまう。
 利吉の身体に土井先生の優しさが、温もりが満ちてくる。
 いつだって、そうだ。
 抱きしめられて、土井先生に包まれて、囚われるのは、利吉の方。



「先生・・・・」
 温かさに。いつの間にか緊張と身体の硬直さえ解されて、利吉の胸の前で組まれている土井先生の手に、自分の手を重ねてしまう。
 逞しくて、力強く、大きなその手が。利吉をしっかりと抱きしめてくれる。
 それが嬉しくて、悔しいくらいに触れていたくなる。
 それを察したのか、土井先生も組んでいた手を解いて、利吉の手に重ねてくれる。
 そして。
「・・・・利吉くん」
 穏やな声が耳元で利吉の名前を呼ぶ。
 その響きは、深く柔らかくて、ずるいくらいに利吉の心をいつまでも震わせる。
 恥ずかしくて、それでも、引き寄せられるように、躊躇いながら振り向いて、抗うこともできずに視線を上げる。



 目と目が、合う。
 とても自然に。
 まるで決められていた事のように。
 疑いを差し挟む余地もないくらいに、当然に。



 唇が、重なる。



 土井先生の唇はとても優しくて、温かくて、穏やかな香りがして。
 利吉の心を激しく揺さぶる。
 嬉しくて、恥ずかしくて、苦しくなるくらいに鼓動が高鳴って、それが土井先生に伝わってしまうのではないかと思うと、余計にどうしていいか分からなくなる。
 それでも。爪先から頭のてっぺんまで、耐え難いくらいに温かくて優しい想いに満たされる。



 触れていた唇が、ゆっくりと離れる。
 それは、永遠のような、一瞬のような時間で。
 それでも、暴れ出した心臓はなかなかおさまってくれなくて、胸の奥の奥が熱くなって、呼吸をすることすら難しくて。でも、嬉しくて、幸せで。土井先生以外の何も考えられなくなる。
 矛盾すらもあっさりと受け入れてしまうくらいに。



 ゆっくりと目を開くと、至近距離にある土井先生の瞳が、きらりと光ったような気がして。
「土井先生・・・・?」
 考えるよりも先に、名前を呼んでいた。
 利吉の呼び掛けに、土井先生は穏やかに笑う。それでも、いつもは穏やかに微笑んでいる口元は、何かを必死に堪えるように微かに震えていて。
 さっと不安が利吉の胸に忍び込んだ、その時。
 利吉をじっと見つめていた土井先生の顔が輝く。



「月」


 利吉の見間違えだと言いたげなくらい自然に、土井先生の口が穏やかに単語を口にする。それにつられて、利吉は東の空を見る。
 空の端に、願いを叶えてくれるという半月がゆっくりと登りだし、冴え冴えとした銀の光で世界を照らす。
 その瞬間。
 風が凪ぎ、葉のざわめきがまるで潮が引くみたいに、すっと止んだ。
 世界中が静寂に包まれたような気がした。
 そして、同時に言葉をなくした。



 眼下に広がる、一面の桜の森。
 薄紅の花が、銀光に浮かび上がる。
 闇から浮かび上がるその光景は、あまりに綺麗過ぎて。
 言葉が出てこない。
 ただ。胸の奥がざわざわとする。しかし、そのざわつきは嫌な感覚ではない。



 綺麗過ぎて、畏怖さえ感じさせるくらいの神聖な何かに、呼吸すら忘れる。
 それと同時に。
 土井先生が、利吉にこれを見せたいと、一緒に見たいと思ってくれた事が、心の底から嬉しい。
 嘘みたいに綺麗な目の前の光景。そして、土井先生の気持ちが、耐えられないくらいに嬉しくて幸せ過ぎて。まるで現実ではない気がして。
 無意識に、重ねていた手に力を込めてしまう。


 ぎゅっと掴んだ土井先生の手の感触に、そこに確かにある存在に、はっと我に返って手を離そうとする。
 けれど、一瞬早く、土井先生は利吉の手を捉え、握り返してくれる。
 驚いて土井先生を見上げる利吉を、優しい響きが包む。
「大丈夫」
 深く穏やかな眼差しで、確信に満ちた土井先生の声が、利吉の身体に、心に響く。


「大丈夫」



 その確固とした響きに、真っ直ぐな土井先生の瞳に。
 利吉は自然と笑顔になっていた。
 そして、土井先生も心底嬉しそうに、本当に幸せそうに、笑ってくれる。
 それを信じて、利吉はそっと身を預ける。
 すると、土井先生はしっかりと、全身で受け止めてくれる。




 
 願いを叶えてくれる、という半月。
 願い事はたくさんあったはずだけれど、今は何一つ思い浮かばない。
 ただ、土井先生の逞しい腕の中で、闇を切り裂く光を穏やかに見上げる。
 土井先生と一緒にいられるだけで。
 ただ、土井先生とこうしていられるだけで。
 利吉は十分に幸せだから。









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